辻村氏は、この両者の間に著しい差異、すなわち法によって平等は担保されているにもかかわらず、平等は実現せず、法と現実の間に大きな乖離がある場合には、その乖離を縮めるためにクオータのような積極的な平等措置が容認できると考える。
東工大の女子枠、辻村氏の見解に従うと、同校の女子学生比率は13%と低く、教育機会の平等は事実上実現していない。ただ、この問題、フェミニスト政治学者の間ではもう少し突っ込んだ議論がなされている。法の定めとその実践の間に著しい差異の要因、すなわちそれが個人の能力や努力を超えたものなのか、という点に注目する。
たとえば、米国でアフリカ系アメリカ人に対する優遇措置が認められるのは、かれらが被る構造的な差別ゆえである。人種がかれらの家庭環境、住む場所、教育や雇用の機会などを左右し、白人との差異は個人の力だけでは埋め難い性質のものだ。かれらは出発点においてすでに遅れをとっており、優遇措置は白人と同じスタートラインに立つために必要だと考えるのである。
私が若い頃(何十年も前!)、女性の頭脳は自然科学向きではないという神話が真しやかに流布していた。男性脳、女性脳などと性別による脳機能の違いを強調する研究も流行った。脳に性差は確かにあるらしい。だが、それは能力の差ではなく、特徴的な違いにすぎず、しかも性差よりも個人差のほうが大きいというのが近年の有力説である。男女に知的能力の差はないのである。
とはいえ、未だに女子受験生を理系よりも文系に誘導する風潮は根強い。家庭から学校、地域社会まで少女を取り囲む環境のなかで、彼女たちに昆虫・動物、自然現象や科学的探究に関心を持つ機会がどれほど与えられているのだろう。少年よりもずっと少ないはずだ。そう考えると、東工大の女子学生比の低迷は、日本の社会、文化に埋め込まれた構造的な問題に行き着き、それを早急に解決するには女子枠を設けるほかないという論理も故なしとしない。
しかし、そうだとしても、私は女性を別枠で取り扱う考え方にはやはり釈然としない。東工大が丁寧に説明しているように、女子枠合格者の学力は決して劣るわけではないに違いない。にもかかわらず、この特別枠で入学したことが彼女たちにスティグマ(汚名)を与えはしないだろうか。
さらに、女子は、一般入試はもとより「一般枠」との併願もでき、一見すると男子よりも受験の機会が広がるように思われるが、実際はどうか。暗に女子は「女子枠」で受験しろといったような圧力がかけられることはないだろうか。例えは悪いが、女性専用車両に感じる居心地の悪さに似ている。専用車両に乗りたくないと思っていても、一般車両の男性の目が気になり(私の被害妄想かも)、意に反して専用車に乗ってしまう。
女性というジェンダーステレオタイプが強調されるのも気になるところだ。この点は次回論じることにしたい。
(次回につづく)