■ソ連から逃れたルイコフ一家のサバイバル生活
カルプによれば、彼らの窮状は1936年に始まり、共産主義政権がさまざまな取り締まりを強化させていた時代に、伝統的なロシア正教会は前時代の教義であるとされて新しい典礼の採用を強いられていたという。これを拒否していたルイコフ一家は迫害の対象となり、同年にカルプの兄弟がソビエトのパトロールによって射殺されたのを機に、一家でこの厳寒の地に逃れてきたのである。
ここに拠点を構えることを決断した一家は掘っ立て小屋を建て、ジャガイモとライ麦を栽培する畑をつくり、ナッツ、麦、ベリー、根菜、野草、キノコを集め、小動物を生け捕りにする罠を各所に仕掛けた。この荒野で手に入れることができるものは何でも集めたが、一家は常に飢餓と隣り合わせであったという。
凍てつく霜は畑の作物を台無しにし、野生動物は彼らの食料品倉庫を襲撃して食い荒らしていった。しかし一家は創意工夫と信仰による意志の強さでなんとかサバイバルを続けてきたのだった。
最初に持参してきた衣服がもう修繕できないほどボロボロになると、彼らは葉、樹皮、麻から服や靴を作った。彼らが持ってきた金属製の食器は、最終的には錆びて砕けてしまい、すべてが役立たずとなった。アガーフィアは後に、食糧を確保することの難しさについて「毎年、私たちはすべてを食べ尽くすか、種のためにいくらか残すかを決定するための家族会議を開きました」と語っている。
彼らは2人の子ども、娘のアガーフィアと息子のドミトリーをこの地でもうけてから40年間、文明社会から隔絶された状態でこの地での生活を続けた。第二次世界大戦が起こっていたことも知らず、ここで生まれた2人は、自動車はもちろん、馬や飛行機を見たことがなく、またパンや塩を口にしたこともなく、外の世界についてまったく知識がなかった。カルプは2人の子どもたちに教育を施してはいたが、子どもたちにとってそれは現実というよりはおとぎ話やSF小説のようなものであり、彼らの現実は、タイガの荒涼とした凍土と永遠の寒さであった。
彼らは多くの困難に直面していたことはもちろん、悲劇にも見舞われた。カルプの妻アクリナは、特に食糧事情が厳しかったある冬の間に自分が食べる分を子どもたちに与え続けた結果、1961年に命を落とした。