一方で渡良瀬川流域を中心に鉱毒被害をもたらし、日本初の公害、足尾鉱毒事件も起こし公害対策の必要性がクローズアップされるきっかけになりました。
構内は江戸、明治、大正と時代ごとの銅産出方法の違いを人形を使ってわかりやすく説明しています。最初は手堀であったのが機械化が進み、ダイナマイトを使った掘削作業まで紹介されています。
坑内には神社もありました。常に危険と隣り合わせの鉱山においてはこういった安全祈願は必須だったのでしょう。
足尾銅山を出たあとは、少し歩いて古河掛水倶楽部を訪ねました。明治から大正にかけての足尾銅山の隆盛期に貴賓客の接待や宿泊施設として利用されてきました。一部を除いて内部の撮影はできませんが、中は洋室と和室を併せ持っている和洋折衷型。ビリヤード場なんてハイカラなものまで備え付ける施設でした。
掛水倶楽部本館の脇に佇むレンガ造りの重厚な建物は旧足尾銅山の書庫。事務所の付属設備として建てられましたが、この建物だけが現存しています。明治時代の足尾銅山の姿を偲ぶことができる数少ない史跡です。
掛水俱楽部の周辺にはかつて足尾銅山の職責者が暮らした社宅も公開されています。課長宅なんていうものもあって、課長くらいならわたしもすめたかな、と思いましたがここの課長はきっとうちの会社の課長とは格がかなり違うのでしょう。
職責者の建物の眼下には庭園も広がっています。ここに行くにはトンネルを通っていくと近道なんですが、
このトンネル、なんと防空壕でした。そんな施設まで整っていたんですね。銅の産出地ということもあって米軍から狙われることもあったのでしょう。
掛水倶楽部から歩いて足尾駅までやってきました。通洞駅から足尾駅までは800メートル。足尾の集落を散歩しながら歩けばすぐ到着です。
足尾駅はかつて銅輸送の貨車を留置するための線路が多く敷設されていました。今はかつて活躍した名車たちがここに安置されています。