吉澤はこの一文を、「日本側の譲歩線として注目される。ただし、最終的な基本条約が『もはや無効』という表現に決まったことを考慮すると、この譲歩線は韓国案をそのまま受け入れることを意味しないものといえよう」と評している。相手に指摘されるまでは黙っておく、というひとつの交渉術だ。

こうした経過を経て開かれた65年1月26日の第七次会合で、日本側は「旧条約無効確認条項」を「韓国側が是非入れたいのであれば、前文中でこれに言及することを検討する用意がある」と述べ、「締結当初において有効だった」との解釈を滲ませた。が、韓国側の示した第三条の英語は「are null and void」のままだった。

日本側はこれを問題にしたが、2月5日の第九次会合で日本側が示した第二次案では、以下の様に初めて第五条に「旧条約無効確認条項」を加えた。

大日本帝国と大韓民国との間に1910年8月22日以前に締結されたすべての条約及び協定が日本国と大韓民国との間において効力を有しないことが確認される。

吉澤は、外務省条約局案に「null and voidを吞まされた時のために取っておく」ため「効力を有しない(have no effect)という表現を維持するとの2月2日のメモが付されている」と書いている。「are null and void」が最終案だと主張する韓国に、日本もそれでは「条約が当初から無効だったことになる」と譲らない。

が、日本は2月10日の第十一次会合で示した第三次案で「have become null and void」、つまり旧条約が当初から無効であると解釈できる余地を狭めた。これに韓国は第六次交渉で「have been null and void」と提示するも、これも日本側は「工合いが悪い」と退けた。

最終的に「are already null and void(もはや無効)」で合意したのは、2月17日の椎名外相訪韓後の第七次交渉だ。太田修は「もはや(already)という文言」により、「相互に別々の解釈が可能になったこと」を「近年の研究」が「明らかにしている」と述べている(前掲書第一章「二つの講和条約と初期日韓交渉における植民地主義」)。

要するに「1910年8月22日以前に締結されたすべての条約及び協定」を、韓国側は「併合条約を含むすべての条約と協定が締結された時点に遡って無効」と解釈できる一方、日本側は「大韓民国が独立した48年8月15日に失効するまで有効だった」と解釈できる、「玉虫色」の文言にしたのである。

そこで目下の日韓両国の喉に刺さるトゲ、すなわち「レーダー照射事件」に目を転じる。

温厚で誠実な李相哲龍谷大教授を筆者は敬愛する。8月17日の「産経」正論欄に載った「『レーダー照射』 棚上げ許されぬ」でも李教授は、正義感ほとばしる文字通りの「正論」を吐く。

朝鮮族として中国東北部に生まれた李教授の強みは、語学力を生かした中国語やハングルの情報分析。この件でも、大和堆にいた北朝鮮船に青瓦台(文政権当時の大統領府)が駆逐艦を派遣した背景に、同船の乗員は「金正恩体制への抵抗運動を試みて失敗、逃げてきた元軍人」とするメディア情報を挙げて、事実とすれば「文政権は金政権と内通関係にあったことを意味する」と指摘する。

この指摘の根拠は、現場から200キロ離れた海域で作戦中だった駆逐艦の駆け付けに、大統領府の指示があったのではないかというのが第一点。つまり北朝鮮から青瓦台に乗員確保の「要請」があったのではないかとの推理だ。

青瓦台は「人道主義的救助作戦」と説明したが、ではなぜ「救助に協力できる日本の哨戒機にレーダーを照射する必要があったのか」というのが第二点。韓国軍は当初「遭難船のためにレーダーを稼働したのを日本が誤解した」と説明したが、後に「日本が救助作戦を妨害した」のだから「謝罪しろ」と要求した。

三点目は、救助といいながら乗員の健康診断や尋問をせず、2日足らずで北朝鮮に送り返したこと。これらのことから李教授は、青瓦台が北朝鮮からの「確保要請」に応えて海軍まで動員し、それを隠すため日本の哨戒機を追い払うべくレーダーを照射したと推論する。

そして「信頼構築には真相究明が先だ」とし、次のように「正論」は結ばれている。

文政権の北朝鮮との関係を巡る疑惑は、尹錫悦政権で調査が進んでいるが、レーダー照射問題については棚上げにされようとしている。日韓が協力関係を強めている状況下で好ましくないと判断したかもしれないが、逆ではないか。

文政権がとった行動についての李教授の分析はおそらく的を射ていよう。が、遺憾ながら「正論」の結語は、筆者の考えとは異なる。なぜなら、そこに「もはや」の知恵がないからだ。

朝鮮戦争休戦70周年に中露国防幹部が集った北朝鮮はミサイル発射を繰り返し、片や不動産バブルの崩壊が懸念される中国は、半導体制裁などに伴う経済低迷に加え、若者の失業率高止まりや昨今の大洪水など、習近平の独裁体制の陰りの色さら濃く、自暴自棄の台湾侵攻がないとはいえない状況だ。

こうした中、日米韓は6月3日、シンガポールで浜田防衛相、オースティン米国防長官、イ・ジョンソプ韓国国防部長官による防衛相会談を開き、「北朝鮮情勢等について日米韓の協力の深化の重要性を確認、北朝鮮のミサイル警戒情報のリアルタイム共有について、今後数か月中に初期的運用を開始するための更なる進展を誓約した」。

共同声明では、日米韓の連携及び協力を促進すべく「日米韓防衛当局間情報共有取決め(TISA)」の活用を確認し、また日韓の軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の最近の正常化を歓迎したと述べているが、筆者は19年8月25日の拙稿で次のように指摘した。

米国防総省は送られてきたこれらの情報について、米国の秘密等級と同じ水準で該当情報に秘密等級を表示し、韓国の情報は日本に、日本の情報は韓国に伝達する。韓国と日本が共有したい情報は米国を経由しなければならない不便があり、迅速な共有が難しいという問題がTISAにはあった。

だが日韓GSOMIAの締結によって、米国が日本向け・韓国向けの情報整理をする必要がなくなり、迅速な情報共有が可能になった。その上、国家間の条約であるGSOMIAには国際法的な拘束力があり、交換する情報の守秘義務があるので、高度に機微な1級以上の情報をもやり取りできる。

文政権が破棄しようとした日韓GSOMIAは、日米と米韓のGSOMIAと相俟って、初めてその真価が発揮される。尹政権の韓国は、徴用工問題の国内処理といい、日韓GSOMIAの正常化といい、また直近の福島処理水放出への理解といい、日本や米国との協調姿勢への変化が顕著だ。

筆者は、国内の左派反対勢力や支持率の低下を意に介さずに、自ら考える韓国の国益に適う政策を着実に押し進める尹錫悦に、国内の反対を押し切って日韓国交正常化に邁進した朴正煕の姿が重なる。

レーダー照射事件に関する李教授の分析が正しいとすれば、それは同時に、韓国政府や軍部におけるこの問題の根深さを表している。現地の記者会見で、レーダー照射事件について問われた浜田防衛相は次のように答えている。

防衛省の立場は、平成31年1月に公表した最終見解のとおりであり、今回の会談においても最終見解を踏まえて議論したところです。これ以上の具体的なやり取りについては、相手国との関係もありお答えできかねることを御理解いただきたいと思います。防衛省としては、今回の会談の結果も踏まえ、引き続き韓国側と緊密に意思疎通を図っていく所存です。

「棚上げ」というよりも、問題が根深いからこそ時間を掛けて解決の雰囲気を醸成してゆく、と筆者は受け取る。先ずは日韓共通の脅威である中・露・北朝鮮に対抗する日米韓の連携強化をし、信頼を構築してからレーダー事件を解決するというのであって、「信頼構築には真相究明が先だ」との手順は取らないということ。「もはや」と同じ知恵と言えまいか。

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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