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外交に付き物の「玉虫色」とは、「玉虫の翅が光線の具合で緑色や紫色などに変化して見えることから、見方や立場によって様々に解釈できる曖昧な表現などを喩えていう語」(デジタル大事泉)だ。これから論じる日韓問題では、以下に挙げる1965年6月22日に締結された日韓基本条約第2条にある「もはや無効」が典型だ。(以下、太字と年代のアラビア数字化は筆者)

1910年8月22日以前に大日本帝国と大韓民国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効(筆者注:英語は「are already null and void」)であることが確認される。

日韓国交正常化交渉は、敗戦国日本が「朝鮮半島の独立を承認して、放棄する」ことを約したサンフランシスコ平和条約署名の翌月、51年10月に予備会談が始まった。65年6月まで14年間の長丁場の第一次交渉から、1910年の「日韓併合条約」を無効と考える韓国は「日韓併合無効論」を展開した。

52年2月の第一次交渉第二回会合で日本が示した一次案に対し、韓国側が「大韓民国及び日本国は1910年8月22日以前に旧大韓帝国と大日本帝国との間に締結されたすべての条約は無効であること(筆者注:英語は「are null and void」)を確認する」との第三条を提示したのだ。

外務省はこれについて、「無効」という用語が「最初から不正立なのか」、それとも「いったん成立し、その後失効」したのか不明確であるとし、「併合の事実が完成したと同時に、条約が失効した」として日本の朝鮮支配の合法性を主張した。

この「旧条約無効確認条項」を議論した同年3月の第五回会合で、韓国代表兪鎮午はこう主張した。

(要旨) 1910年以前の条約は当時に遡って無効であるとの強い信念・国民感情が当方にある。が、ここでそれを強く主張すれば会議が纏まらなくなる。・・これを入れて過去の誤りを認めることが両民族の将来のために良いように思う。

日本側代表は、「(併合条約が)有効適法の条約であったのは疑問の余地がない」し、この文言の挿入が「日本の国民感情を刺激する」として、「韓国側の強い希望ではあるが、この条約からは除きたい」と主張した。だが、韓国側は同意しなかった。

その後、53年10月の第三次会合での「久保田発言」(久保田参与が「韓国の独立は平和条約発効のときであるから、その前に独立したことは、たとえ連合国が認めても、日本からみれば異例の措置」と述べた)で決裂した交渉は、57年12月の日韓共同宣言で日本側が久保田発言などを撤回したことから、再開された。

61年5月の軍事クーデターで成立した朴正煕政権は、高度成長政策を標榜する観点から姿勢を変え、交渉は進展する。この間の外務省内での「旧条約無効確認条項」の検討に関する次のような記録がある(「歴史としての日韓国交正常化Ⅱ」第3章「日韓正常化交渉における日本関係交渉」吉澤文寿)。

いつから無効になったかということが出ないものなら差し支えないが、なければそれにこしたことはないので、最初の日本案の提示のときは削除しておくことが決定された。