日経の社会面に興味深い記事がありました。「地位確認訴訟 言葉の応酬、辞職か解雇か『勤まらない』『物片付けて』 『放言』が火種、真意争う」というもの。長い記事なのですが、かいつまんで言うとトラック運転手の男性が同僚と2台のトラックで別々に資材を現場に運んだ際、同僚が荷下ろしたあとにこの男性は現場に到着。その際にガードマンが不機嫌で「何かあったな」と直感したというところから始まります。
そのまま荷下ろしをするも、数日後、男性の勤める会社の社長が「お前がガードマンに暴言を吐いたので会社が出禁になった。お前のせいだ!」とします。その後再度面談をした際に男性は社長に「もう勤まらない」と言い捨てます。社長が「勤まらないなら私物を片付けて」と応じると、男性は会社貸与の携帯電話と保険証を置いて立ち去り、二度と職場に姿を見せなかったというものです。
これは解雇になったのか、自主的に退職したのか、が争点になります。この記事だけだと私では全体像が判断ができないのですが、裁判の結果は会社側の過失が認められ、その後、和解金が払われたとのことです。
これなどは社長と男性の間のコミュニケーションが初めから色付きメガネのポジションでスタートしており、双方が感情的になりどちらともなく「ふざけるな」という最悪の結果になってしまっています。私からみるとそもそも資材を届けた先で出禁になるほどの理由がどこに存在したのか、それがわからないのです。つまりガードマン氏がなぜそのように感じたのか、ガードマン氏にも不備があったのではないかという気もするのです。
社会全般、あらゆる事象においてコミュニケーションそのものが成立していない可能性が起こっているように感じるのです。つまり人間は本来、より論理的にディベートができる素養を持っており、古代アテネでそれは大きく開花したはずです。なのに現代社会では短文方式のテキストメッセージで済ませるため、1行にも満たないやり取りで終わっているのです。これは動物とほぼ同じで本能に対する反応以外の何物でもないのです。
若い人たちを中心に「リアルのやり取りをすること」が不得手な人が増えており、電話やオンラインミーティング、実際に会って話をするとなると会話のキャッチボールにならないだけではなく、理解したかどうかすらはっきりわからないのです。私はたまに話が長いといわれるのですが、話が長いのではなく、かみ砕いて説明しないと理解してもらえない、そして間違った認識をされると将来「言った、言わない」で揉めることが起きる、だからきちんと説明をすることを心がけています。
コミュニケーション欠如は非常に怖いと思います。G7の際にローマ教皇が「AIが暴走すれば『人間の尊厳』が危機にさらされると警告、G7はこれを受けてAIが人権などに配慮した『人間主体』で発展するよう、管理を強化する」(毎日新聞)とあります。コミュニケーションも当然そこに含まれるわけで我々はより意識しながら人との対話をしていかねばならない時代になったと感じています。
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2024年6月23日の記事より転載させていただきました。