「刮目相待」の由来
では「刮目相待」はどこから来た表現なのでしょうか。
ここからは「刮目相待」の由来について解説します。
武将・呂蒙の成長から生まれた
「刮目相待」は三国志「呉書-呂蒙伝」に見える「江表伝」の話に由来します。
二世紀の終盤、後漢王朝末期の中国に呂蒙という武将がいました。
彼は教養があまりなく、周囲からも決して一目置かれるような存在ではありませんでした。
しかし、彼は主君に諭されて学問に励み、見違えるほどの教養を身につけたとされています。
そんな彼を見て昔馴染みの魯粛が驚くと呂蒙は「立派な男というものは別れて三日経ったら当に刮目して相待つべし(目をこすってきちんと見直さないといけないものだ)」と答えたそうです。
そこから人や物事の成長や進歩を待ち望むことを「刮目相待」と表現するようになったとされています。
呂蒙とはこんな人物
呂蒙は中国後漢末期の武将とされています。
主に呉の孫策・孫権に仕えた武将として知られています。
呂蒙の名が歴史の表舞台に現れたのは呉軍が劉表の配下である江夏太守の黄祖と戦った時のことです。
かつて、黄祖の部下だった呂公が呂蒙の主君である孫堅を弓で射殺していることから、黄祖は孫権にとっての仇敵とされていました。
この戦いで呂蒙は黄祖の配下である陳就を打ち取る戦功を上げ、孫権に賞賛されて立身出世へ躍進しました。
以降も数々の戦で活躍し、最終的には太守にまで抜擢されます。
しかし、その後まもなくして呂蒙は病床に伏してしまいます。
その後も孫権は手を尽くして呂蒙の回復に努めましたが、最終的には42歳で生涯の幕を閉じたとされています。