しかし、ゲノム研究から差別が生まれたのではなく、もともと差別の材料とされてきたことに遺伝子情報が付け加えられただけである。米国の遺伝子差別禁止法は、これを懸念して作成されたものであり、遺伝子の違いを理由にする病気や身体的特徴のような差別に限らず、保険・就職・結婚などを含めてあらゆる差別をなくしていく不断の努力が必要である。
これには、教育が不可欠だ。単に差別がいけないという道徳教育だけでなく、その背景となる科学の教育も不可欠だ。ゲノム解析は、われわれの遺伝子の多様性を科学的に実証してくれた。みんな持って生まれた種が違うのだ。しかし、それを認めて尊重し、リスペクトするところから、新しい世界が生まれるのだ。
もちろん、遺伝子がすべてを決定づけるのではなく、生まれた後の様々な要因(食環境・生活環境・努力)も大きな影響を与える。アスリート遺伝子の研究を日本で停止したところで、世界は間違いなく、それらの研究を続けて、いろいろな運動能力に関連する遺伝子を見つけていくだろう。
科学的には明らかに個人間の差(区別)は存在している。陸上の100メートル走を見ればアフリカ系が有利なのは、誰が見ても明らかだ。その差を遺伝的な多様性が影響しているとして科学的に理解したうえで、科学的にその差を乗り越えていくのかを考えていくことが重要なのだ。
当然ながら、どんなに努力してもできないことがある。これを知ることも必要だ。たとえば、私の音痴などは、その典型例だ。絶対音階を持つ人と絶対音痴の私の遺伝子はどんな違いがあるのか、わかっても私は悲嘆しない。それが個性の一つなのだから。
大谷翔平選手と全く同じ努力をしたとしても、みんなが大谷翔平選手レベルに投げて、打って、走れるようになれるはずもない。アスリートの選別につながる恐れがあるというが、本当に科学的に根拠のある差があるなら、それを理解したうえで人生を選んでいくことも必要だと思う。私が自分の音痴遺伝子を知らずに歌手や演奏家の夢を目指していくとしたら、100%可能性のない夢を追い続けることが尊いのかどうか疑問だ。