英国王の戴冠式を機に、世界の王族への関心が高まっている。戴冠式での服装は英国側から第一級の礼装でないといわれたので、各国の王族たちは面食らったようだ。
スペイン国王など多くが軍服。オランダ国王はモーニングには普通はつけない勲章をつけていたし、秋篠宮殿下やリヒテンシュタイン大公はモーニングに略章だけ、ヨルダン国王のように平服の人などまちまちだった。
現在の世界各国の君主たちがどうなっているかは、『英国王室と日本人:華麗なるロイヤルファミリーの物語』(小学館 八幡和郎・篠塚隆)に詳しく書いて、日本の関係者にも参考にしてもらって好評だったのでぜひご覧頂きたいが、本日は、今や消えてしまったが、しばしば日本の皇室以上の歴史を持つとも言われたエチオピアの皇帝のお話を少し。
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旧約聖書に登場するイスラエルのソロモン王と、イエメンからやって来たシバの女王との契りから生まれたメネリク1世が、紀元前10世紀頃にエチオピアを統治したという伝承がある。
紀元前5世紀からのアクスム王国、1270年に成立したというソロモン朝エチオピア帝国の王はメネリク1世の直系の子孫を名乗っていた。
エチオピアの支配部族であるアムハラ人は、アラビア半島のイエメン付近からアビシニア高原に移動してきたもので、言語はセム語系だ。4世紀のエザナ王がキリスト教(コプト派。現在ではエチオピア正教)を国教とした。イスラム教徒に攻められたが、ちょうど大航海時代でやってきたポルトガルの援助もあって生きのびた。
イタリアが植民地化を狙ったが、メネリク2世がフランスの支援を受けて撃退した(1896年。第一次エチオピア戦争)。
ムッソリーニに全土を占領され、ハイレ・セラシエ皇帝(1930年即位)はイギリスに亡命し、イタリア王がエチオピア皇帝を兼ねた(1935年。第二次エチオピア戦争)。
第二次世界大戦の結果、ハイレ・セラシエが帰国してエチオピア帝国として再独立をし、海岸部のエリトリアと連邦を組み(1952年)、のちに併合した(1962年)。
ハイレ・セラシエは、明治天皇を尊敬するといい、戦後の1955年に国賓として来日し、東京五輪マラソンの金メダリストであるアベベが軍人として仕える皇帝といった理由で日本にとっては親しみ深い存在であった。
たしかに、立憲君主制憲法の実施、奴隷制廃止、近代的な教育制度導入、アフリカ統一機構(OAU。現在はアフリカ連合、略称AU)を設立し本部をアディス・アベバに設置、アフリカ諸国間の紛争にあっては調停者として活躍など業績も大きかったが、理念的なものに留まり農民の窮状に対して浮世離れした感覚のままだった。