(30)「戦時『社会国家』(構想)は、『戦後』へと直結するものではなく、むしろ高度経済成長期さらには『現在』へと連なる面がある」(同上:344)。

もちろん断片的にはそうであろうが、戦時国家を「社会国家」と読み替えて、それが高度成長期までではなく、「現在」へと連なる面を強調するには、本書では材料が乏しすぎる。

日本の社会科学の歴史の中で、高度成長期を挟んだ30年間はマルクス主義に立脚した「国家独占資本主義論」の全盛期であったことを忘れてはいけない。しかしそれも20世紀末のソ連の崩壊前後から影をひそめ、21世紀の「現在」では消滅した(金子、2023)。

日本語での「社会国家」表現は控えたい

以上の本文での検討をもとに私の結論は以下の通りである注18)。

(1)社会(コミュニティ)と国家(アソシエーション)という基礎的概念を区別する社会学の伝統から、学術的な「社会国家」という日本語表現は控えたい。

(2)機能論的な理解が普遍化している国家論の伝統を踏まえると、農本主義、生産力主義、社会政策志向、移民促進人口増加、厚生行政の各論に「社会国家」は使わない。国家の機能拡大で十分である。

(3)本節で点検したように、使用された文脈でもすべて「国家」だけで十分意味が通るので、「社会国家」という日本語表現は避けたい。

(4)ドイツ語での「福祉国家」「社会国家」だけに留意するのではなく、フランス語での「福祉国家」「社会国家」にも配慮がほしい。

日本語表現としては「国家」だけで事足りる

日本語で国家を論じる際には、それが最大のアソシエーションであり、多機能を国民から求められることにより、戦時国家、産業国家、租税国家、福祉国家などの表現を生み出したが、いずれも日本語表現としては「国家」だけで事足りると考えられる。

注11)ここでは、「社会運動が抑圧されてきた社会は、市民社会を抑圧してきた社会でもある」(長谷川、2024:35)もまた想起しておきたい。