日本のモータリーゼーションを牽引したダイハツ
ダイハツは、1907年に「発動機製造」として設立され、戦前・戦後を通じて主に3輪トラックの分野で知名度を上げる。日本のモータリーゼーションは、商用車、とくに3輪トラックが出発点になっている。その意味でダイハツは日本の自動車文化の出発点を支えたメーカーだといえる。
ダイハツが早くから確固たる地位を築いたのは、マーケットニーズを取り入れる開発手法をいち早く導入し、失敗のない商品作りをしてきたからだった。たとえば、バイクと小型3輪トラックの隙間を埋める、今までにない革新的な「庶民のマイクロ3輪トラック」として大成功したミゼット(1957年8月デビュー)の開発期間は約5年。異例の長期にわたった。それは実際の設計を本格化させる前に、約2年もの時間をかけて入念な市場調査を行い、ユーザーニーズを明確にしたからだという。
ダイハツ初の本格サルーンとして1963年11月にデビューしたコンパーノ・ベルリーナにも、ダイハツの慎重な姿勢が貫かれていた。1960年代半ばは、現在とは違って、まだまだ乗用車は憧れ、贅沢な存在だった。オーナードライバーの多くはサラリーマンではなく、商店などを経営する自営業者。彼らはウィークデイは仕事の足として使え、休日にはファミリーカーとして活躍するマルチユースなモデル、すなわち商用車のライトバンを好んだ。ダイハツはそれを熟知していた。コンパーノはまず1962年秋のモーターショーでプロトタイプを発表。想定ユーザーの高い評価を確認したうえで、1963年4月に商用車のライトバンから市販を開始する。その2ヶ月後の6月に各部を豪華に仕上げたワゴン(乗用車登録)を発売。セダンタイプのベルリーナの登場は、さらに5ヶ月後だった。
際立つイタリアンデザイン。信頼のメカニズム
導入手法は、堅実だったもののコンパーノ自体はフレッシュな魅力に溢れていた。何よりスタイリッシュだった。基本造形を手掛けたのはイタリアのカロッツェリア・ヴィニャーレ。スポーティなフロントマスク、伸びやかなサイドビュー、そして軽快なリアエンドのバランスは絶妙で、当時、アメリカ車の小型版といったイメージが一般的だった日本車の中で強い個性を主張する。とくにベルリーナは、ウインカーを配置したシルバー仕上げの個性的なBピラーを備え、センスのよさをみせつけた。
インテリアもお洒落だった。セパレートシート、3本スポークステアリング、ウッドパネル張りのダッシュボードなど、欧州車のようなスポーティな感覚でまとめていた。
メカニズム面は、信頼性を重視。頑丈な梯子型フレームを持つシャシーとボディの別体構造とされ、足回りはフロントがウィッシュボーン式、リアはリーフ・リジッドを組み合わせた。エンジンは実用トルクを重視した797ccの直列4気筒OHV(41ps/6.5kg・m)を搭載する。駆動方式はオーソドックスなFRである。ボディサイズは全長3800×全幅1445×全高1410mmとクラス平均。ライバルに対するアドバンテージはトランスミッションにあった。当初からフルシンクロ機構を備えており、3速仕様が一般的ななかで、エンジンパワーを効率よく引き出せる4速タイプとしていた。コラムシフトが標準だったが、一段と操作性に優れたフロアシフトも選ぶことができた。コンパーノ・ベルリーナのトップスピードは110km/hに達した。