しかし、明治になると門跡(皇族などが出家して居住した特定の寺院の住職)などになっていた法親王が還俗し、新たな宮家を創設した。宮家は養子をとれないので、断絶する宮家もあった。ただし、未亡人や未婚の娘がいる限りは、家として残った。宮家として残れなかった王は、侯爵ないし伯爵として授爵された。

皇族が政治的に活躍する場面も増え宮家の数は増えたし、戊辰戦争からは軍人として活躍することになり、その意味でも増員が必要にった。

同世代で10人程度の男子皇族がいることが皇室の安定した継承と財政的な負担のバランスを考えれば適切なわけで、ルールはその数字を実現するための後付けの理屈だ。医学の進歩で子供が死ぬことも少なくなる一方、多くの側室を抱えるというのも流行らなくなるという変化もあった。

そこで、戦前の皇室典範では、4世まで、つまり、玄孫まで、伏見宮家については、天皇でなく邦家親王から数えるということになった。そして、次男以下は華族として授爵することになった。

この原則を具体的に当てはめると、現在のご当主が資格のある人もない人もいるといったところであるが、数が足りなくなったら規則は変えられたはずであって、戦前の制度で臣籍降下が予定されていた世代は排除されるべきだというのは、現在の有資格者がいなくなったら皇室というものは、廃止する時限制度だという暴論と等しい。

継体天皇の継承を見てもわかるとおり、皇室は近い男系で続かなかったら遠縁の男系から求めることで継承してきたし、それは、古今東西多くの国でとられている常識的な制度だ。

戦後になって、皇室も財政的な打撃を受け、規模を縮小すべきだと言うことになって、大正天皇の子孫の宮家だけを残し、11の伏見宮系宮家(伏見宮・山階宮・賀陽宮・久邇宮・梨本宮・朝香宮・東久邇宮・北白川宮・竹田宮・閑院宮・東伏見宮を臣籍降下させる決定が下された。

昭和22年(1947年)10月の皇室会議での議決を経て、11宮家51人が皇籍を離脱した。