正門は朱雀門で、羅城門と並んで重要な門です。正面に朝堂院があり、最初に応天門があって、東西両廊に栖鳳・翔鸞の二楼が連なります。これも含めて平安神宮に再建されて印象的な風景になっています。
帝の生活空間である内裏は朝堂院の北東方向にあって、正門は建礼門で、さらに承明門をくぐると紫宸殿前の広場で、左近の桜、右近の橘が植えられていました。
紫宸殿の西北に清涼殿があって、これが天皇の生活の中心です。内裏には、この二つのほか17の主要な宮殿があって、仁寿殿・承香殿・常寧殿・貞観殿・春興殿・宜陽殿・綾綺殿・温明殿・麗景殿・宣耀殿・安福殿・校書殿・後涼殿・弘徽殿・登花殿、それに妃たちの住まいがありました。
内裏の跡は、大極殿の後である千本丸太町の交差点から北東一帯に広がっています。普通の住宅街ですが、交差点から千本通を北へ行き、最初の信号を右に曲がると下立売通ですが、この通りともう一本北の新出水通にたくさんの案内看板が設置されていますので、迷うことはないと思います。掲示板には他の掲示板の位置も書いているので分かりやすいです。
定子の本来の住まいは、図の左上にある藤壺の北にあった梅壺ないし弘徽殿の北にあった登華殿で枕草子の舞台です。
ただし、兄の伊周と隆家が起こした長徳の変のとばっちりで父親の邸宅だった二条院に移って出家事件を起こしたのですが、これは二条通南側の室町通より東側の区画でハモ料理の堺萬などがあるあたりです。
また、その後、内裏に復帰させられず住んだのは、図の桐壺の西側の御曹司という場所で、ここで三人目の子を出産したあと死んだのです。
一方、彰子の本来の住まいは藤壺ですが、紫式部が出仕したときには、一条通南側で大宮通東側の和菓子の塩芳軒などがあるあたりでした。その後、出産したのは、道長の土御門殿(京都迎賓館の南側)ですし、そのあと内裏の藤壺に戻ったと思われます。