これは当時より「殉教者になるためにあえて挑発的に行動する者は、本当に殉教者として尊敬されて扱われるべき存在であるとはいえない」という考えが強く、殉教者になるために死に急ぐことはキリスト教社会に受け入れられるような行いではなかったからです。
またイエズス会は来るべきキリスト教弾圧の時代に備えて、何とか信徒が弾圧下でも信仰生活を送れるような対策を練っていました。
具体的には信徒が見かけ上の棄教を行ったとしても、神父が告解の儀式を行えばすぐに信徒に戻ることのできるという論理を作ったりしており、取り締まりによって命を落とす信徒が出ないように細心の注意を払っています。
それゆえいたずらに信徒の命を危機に晒すフランシスコ会の行いは、イエズス会にとって到底見過ごすことのできるものではありませんでした。
そのようなこともあってヴァリニャーノは本国への報告者にて、フランシスコ会について「教皇庁の許可も得ずに見境なく、殉教者(長崎で処刑された宣教師ら)を宣伝の対象としているのはいかがないものか」と痛烈に批判しています。
なおヴァリニャーノの働きかけもむなしく、長崎で処刑された宣教師らは最終的にはフランシスコ会の目論見通り殉教者として認められ、日本二十六聖人として扱われることとなりました。
宗教的な信念や名誉のために現世での生命を蔑ろにする動きは古今東西に見られ、それはその宗教の中では肯定的に評価されることも多くあります。
しかしそうした動きに否定的な宗教家も、ちゃんと近世にはいたようです。
キリスト教関連の歴史はひどいエピソードを聞くことも多くありますが、こうした人道的な働きかけもあったのです。
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参考文献
【PDF Online】日本の「殉教」とグローバル・ヒストリー ――日本が西欧の歴史に内在化する時
https://researchmap.jp/HitomiOmataRappo/published_papers/22522693