安土桃山時代末期から江戸時代にかけて日本ではキリスト教が弾圧されていました。
それにより多くの宣教師が命を落としていましたが、中には殉教するために死に急いだ宣教師もいました。
どうして彼らはそのようなことをしたのでしょうか?
この記事では一部の宣教師が殉教者になるために死に急いでいたことについて取り上げつつ、当時の人々が彼らをどう評価していたのかについて紹介します。
なおこの研究は、日仏東洋学会『通信』42巻33p‐82pに詳細が書かれています。
目次
- 「いのちだいじに」のイエズス会、「ガンガンいこうぜ」のフランシスコ会
- イエズス会はフランシスコ会を批判
「いのちだいじに」のイエズス会、「ガンガンいこうぜ」のフランシスコ会
大航海時代、宣教師たちは世界中に宣教をするために向かいましたが、現地の言葉や習慣についてあまり知っていなかったということもあり、その旅路は決して安全なものではありませんでした。
当然警備も医療も万端ではなく、それゆえ志半ばで宣教中に命を落とす宣教師は決して少なくなかったのです。
そうして亡くなった宣教師たちに対してイエズス会はできるだけ殉教という言葉を使わず、「喜ばしき死(felice morte)」や「聖なる終焉(sainte fin)」という言い回しで表現しました。
これは宣教中に命を落とした宣教師を容易く殉教者と扱うことによって、宣教師が殉教のために死に急ぐことを防ぐためであるといえます。
また日本において、イエズス会は他の地域以上に殉教者を出すことを防ごうとしていました。
と言うのも日本の布教活動で大きな役割を果たしたイエズス会のヴァリニャーノは日本人について「全く死を畏れていない」と考えており、もしキリスト教徒が迫害されるような状況になってしまったら、多くの日本人信徒が信仰のために喜んで死ぬことになるだろうと予想していました。