慶応3年(1867年)6月、京都で土佐藩の後藤・福岡らと薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通が会談し、薩摩藩と土佐藩は、大政奉還(幕府が政権を朝廷に返上すること)を目的として同盟を結んだ(薩土盟約)。この後、紆余曲折を経て、同年10月に大政奉還が実現した。

すなわち、10月3日に後藤と福岡が幕府老中の板倉勝静に対して、容堂が記した大政奉還の建白書を提出、14日に将軍徳川慶喜が大政奉還を朝廷に申請、15日には朝廷で受理された。慶喜の政権返上は形式的なものであり、以後も徳川家が政治の中心を担うと慶喜も容堂も考えていたが、時代はそれを許さなかった。結果的に王政復古の大号令、鳥羽伏見の戦いを経て、薩長が新政府の主導権を握った。

山内容堂は西洋の科学技術を積極的に導入した英邁な君主であり、一貫した政治信念に基づいて土佐藩を導いていったが、幕府第一という古い価値観に縛られていたため、薩長に遅れをとったのである。