激動の時代において組織が生き残るためには、人材抜擢などの組織改革が不可欠である。だが性急な改革は守旧派の反発を招き、かえって混乱を生む恐れがある。この連載では、幕末維新を勝ち抜いた薩摩藩・長州藩・土佐藩を参考に、あるべき組織運営のあり方を考えていく。前々回、前回と、激動の時代である幕末期を勝ち抜いた薩摩藩・長州藩を紹介した。今回は土佐藩を取り上げる。

(前回:幕末雄藩に学ぶ組織運営②:活動家に振り回された長州藩)

トップのリーダーシップと優秀な部下の組み合わせが有効に機能した薩摩藩、人材抜擢とボトムアップを重視するがトップの指導力が不足しているため部下が時に暴走した長州藩と比べると、土佐藩の特徴は山内容堂のワンマン経営である。

土佐藩主時代の山内豊信Wikipediaより

藩主となった山内豊信(のちの容堂)が最初頼りにしたのは、吉田東洋であった。東洋は前藩主の山内豊煕に抜擢されて藩政改革を推進した逸材で、ペリー来航の衝撃の中、豊信に再登用された。

東洋は開国には批判的だったが、いざ開港が決定すると、西洋列強との貿易による富国強兵策を立案するような開明的で柔軟な人物だった。東洋は人材登用、財政再建、海防強化などに辣腕をふるった。

さて山内豊信は島津斉彬らと提携して幕府老中の阿部正弘に国難打開のための幕政改革を訴えた。だが阿部正弘死去後、大老に就いた井伊直弼と豊信らは将軍継嗣問題で真っ向から対立した。

13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子が無かったため、豊信や斉彬などの雄藩大名や水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に英明の世評高い一橋慶喜を推していた(一橋派)。しかし、井伊は大老の地位を利用し、紀州藩主・徳川慶福による将軍継嗣を強行した。すなわち、慶福が14代将軍・家茂となることに決まったのである。

将軍継嗣問題を強引に解決した井伊は、反発する一橋派を弾圧した(安政の大獄)。島津斉彬が病死するという不利な情勢の中、安政6年(1859年)2月、山内豊信はやむなく幕府に隠居願を提出し、養子の豊範に藩主の座を譲った。隠居の身となった当初、忍堂と号したが、後に容堂と改めた。容堂は幕府の命を受けて品川の鮫洲の別邸に謹慎し、吉田東洋が藩政の重責を担った。