紳士協定を守ったのはプリンスだけ!?
勝負は「勝つことが絶対に大切」と考えがちだが、結果的には敗北を喫したものの、その闘いぶりが評価を高め名声を確立するケースもある。1964年の鈴鹿サーキットを舞台に展開された第2回日本グランプリがそのいい例だ。主役は初代のプリンス・スカイライン2000GT(S54型)である。
初代スカイライン2000GTのストーリーは前年の第1回日本グランプリでの惨敗からはじまる。日本初の国際公認レースとなった日本グランプリには事前にメーカー間で紳士協定が結ばれていた。
1:メーカーがチームを編成してはいけない。
2:メーカーがレース出場車の改造に関与してはいけない。
以上のという2点である。はじめての本格レース開催に際して混乱を避け、市販車による平等な戦いを実現するための方策だった。しかし、この協定を忠実に守ったのはプリンスだけだった。
トヨタ、日産を筆頭にライバル各社はグランプリを自社製品の優秀性をアピールする絶好の舞台と捉え、積極的な準備を図った。実質的にメーカー主導でチームを編成しドライバーを育成、クルマもレース用に徹底的なチューニングを施し必勝を期したのだ。プリンスはメカニズムの優秀性で定評を築いていた。それだけにどこかに慢心があったのかもしれない。市販状態での戦いならライバルに負けることはない、と安心してしまった。
結果は悲惨なものだった。スカイライン・スポーツで参戦した「スポーツカーIIレース」では7位と10位(優勝はフェアレディ1500)、「ツーリングカーIVレース」ではスカイライン・スーパーが8位、グロリアが10位(優勝はクラウン)に食い込むにとどまった。ちなみにスポーツカーIIレースで優勝したフェアレディはカタログモデルとは明らかに異なるツインキャブ仕様で、足回りも徹底的なリファインが施されていた。ツーリングカーIVレースで勝利を飾ったクラウンも市販モデルとはまったくの別物であった。
屈辱が生んだ名車スカイライン2000GT
正直に協定を守ったことによる敗北。誇り高いプリンス技術陣にとってこれほどの屈辱はなかった。またグランプリでの敗北は販売面でも大きな影を落とした。プリンスはグランプリ終了直後から全社規模で第2回日本グランプリに向けての準備に傾注した。目指すは出場全クラスの完全勝利。なかでもグランプリの花形ともいえる「GT-IIクラス」の勝利は絶対条件だった。
プリンス技術陣はGT-IIクラス参戦マシンをゼロから開発。紆余曲折を経てモデルチェンジしてコンパクトに変身したS50型スカイラインに、新開発のグロリア・スーパー6用直列6気筒OHCエンジン(G7型)を無理矢理積み込む「怪物」を用意する。背景には「GT-IIの勝利のためには、ライバルと拮抗したマシンではなく、ライバルが萎縮するほど圧倒的な性能とインパクトが必要」という技術者の強い思いがあったと伝えられている。ちなみに4気筒エンジン用に開発されたS50型スカイラインに6気筒のG7型エンジンはすんなりとは収まらない。技術陣はスカイラインのフロント部を大胆にも切断。エプロン部分にスペーサーを溶接してホイールベースを200mm延長。長い6気筒エンジンが収まるスペースを確保した。ちなみにこのホイールベースの延長によりG7型エンジンを搭載する手法は、操縦性にプラス効果をもたらした。エンジン搭載重心がフロントアクスルの後方、すなわち現在でいうフロントミッドシップとなったため、重い6気筒エンジンであっても俊敏なハンドリングを実現したのである。
車両型式S54型、正式車名スカイライン2000GTを名乗るマシンが鈴鹿サーキットをはじめて走ったのは1964年3月4日。当初はコーナリング時の不安定な挙動に悩まされたというが、足回りの全般的な見直しとLSDやリアトルクロッドの追加などでリファイン。エンジンもイタリア、ウェーバー社製のキャブレターを3連装して150ps以上にパワーアップされたことから3分程度だったラップタイムは2分50秒前半まで短縮された。参戦ドライバーは生沢徹選手を筆頭に契約ドライバー4名、社員ドライバー4名の布陣が確定。誰もがスカイライン2000GTのGT-IIレースの勝利を確信した。