【クルマ物知り図鑑】日産の海外ラリー初挑戦は、ダットサン210型。「1958豪州ラリー」参戦は、自らの技術力を確かめる目的だった!
(画像=1957年に送り出したダットサン210型の実力を確かめるため国産車で初めて海外の「豪州ラリー」に参戦。赤い富士号と白い桜号の2台が当時世界で最も過酷といわれたラリーにチャレンジした、『CAR and DRIVER』より 引用)

欧米に負けない210型の誕生!

 日産車による国際ラリーへの参加は、1958年の「豪州一周モービルガストライアル」(通称・豪州ラリー)からはじまった。豪州ラリーとは、当時、国土の半分以上が未開拓だったオーストラリア大陸の周囲1万6000kmを19日間で走り切る過酷な競技である。コースは牧場あり、砂漠あり、石ころだらけの荒れ地ありという具合で、現代の常識ではラリーというよりサバイバルレースや冒険といったほうが理解しやすいかもしれない。とにかく完走するだけでも価値ある競技だった。

【クルマ物知り図鑑】日産の海外ラリー初挑戦は、ダットサン210型。「1958豪州ラリー」参戦は、自らの技術力を確かめる目的だった!
(画像=『CAR and DRIVER』より 引用)
【クルマ物知り図鑑】日産の海外ラリー初挑戦は、ダットサン210型。「1958豪州ラリー」参戦は、自らの技術力を確かめる目的だった!
(画像=『CAR and DRIVER』より 引用)

 なぜ日産が豪州ラリーへの参戦を決意したのか。それは近い将来に計画していた輸出のためだった。日産はオースチンのノックダウン生産で得た最新技術を生かした小型車ダットサン110型を1955年1月に発表。1957年には110型を大幅改良版した210型を送り出す。210型は排気量988ccの新設計エンジン(34ps/4400rpm)を積み、油圧式クラッチなどでパフォーマンスを磨き上げ、さらに前後とも曲面式ウィンドウを採用するなどスタイリングを洗練させた自信作だった。日産の技術陣は210型なら欧米のクルマに負けない走りをする。海外市場でも自信を持って送り出せると密かに考えていた。しかし同時に技術陣は「210型は欧米のクルマと比較して、客観的な尺度でどのくらいのレベルに達しているのか」を知りたがっていた。自分たちの商品の強みと弱点をきちんと把握しなければ、輸出にあたって、どこを改良・補強すればいいのかがわからなかったからだ。

総合テストの場として豪州ラリーを選択!

 当初、日産の上層部はVWビートルを購入し、徹底的に比較テストを行うことを技術陣に指示した。しかし技術陣は疑問を唱える。「確かにVWビートルは世界中を走り回っている名車。社内テストによって比較することは意味のある行為だと思う。しかしそれだけでダットサンの実力を推し量るのは危険。大切なことは完全に同一の条件で、可能な限り多くのクルマと比較すること、同一条件のなかにはドライバー、天候、道路状況、クルマのコンディションなどありとあらゆることが含まれる」と主張した。クルマを開発するうえではしごく真っ当な主張である。まして輸出を想定しているのだから多様なテストは必須といえた。しかし当時の日産はまだまだ小規模なメーカーだった。多くのクルマとの入念なテストは物理的に不可能だったのだ。

【クルマ物知り図鑑】日産の海外ラリー初挑戦は、ダットサン210型。「1958豪州ラリー」参戦は、自らの技術力を確かめる目的だった!
(画像=『CAR and DRIVER』より 引用)
【クルマ物知り図鑑】日産の海外ラリー初挑戦は、ダットサン210型。「1958豪州ラリー」参戦は、自らの技術力を確かめる目的だった!
(画像=『CAR and DRIVER』より 引用)

 浮上したのが「海外ラリーへの参戦」だった。それも当時、世界で最も厳しいと言われた豪州ラリーである。確かにラリーであれば技術陣が期待する完全同一条件下でのテストが存分にできた。初めての挑戦として豪州ラリーを選ぶのは無謀ともいえたが、もともと日産は高い技術力で成長してきた会社である。技術陣は、条件が厳しければ厳しいほど燃えた。日本から参加した選手は設計部門から2名、サービス部門から1名、製造部門から1名の計4名。この中には後にサファリ・ラリーでもドライバー&監督として大活躍する難波靖治も含まれていた(ナビゲーターは現地で調達)。マシンはダットサン210が2台で、それぞれ「富士号」、「桜号」と命名された。