しかし、共産党が「共産主義と自由」の理論的根拠とする「マルクス未来社会論」には重大な欠陥がある。

すなわち「諸個人の自由で対等な連合としての共同社会」においては、生産手段は社会的所有とされるであろうが、資本主義社会に比べて、経済の成長発展に不可欠な「競争原理」が十分に働かないため、社会の技術革新が進まず、生産性が低下し、勤労意欲も低下し、各人の所得も低下し、社会的蓄積も低下するであろう。そのため、経済は長期停滞し衰退に向かわざるを得ないであろう。

そのような状態になれば早晩経済は破綻し、諸個人は「貧乏の自由」に陥ることにならざるを得ない。上記旧ユーゴスラヴィアの「労働者自主管理社会主義」も労働者による分配重視政策のため社会的蓄積が制約され経済が長期停滞した(小山洋司ほか著「ユーゴ社会主義の実像」21頁以下1990年リベルタ出版)。

さらに、「マルクス未来社会論」では社会保障や安全保障の観点が全く欠落している。まさに中身のない単なる抽象的な一種の「ユートピア思想」に過ぎないと言えよう。

「マルクス未来社会論」は原始共産制への先祖返り

このように考えると、「マルクス未来社会論」はエンゲルスの「原始共産制」(エンゲルス著「家族・私有財産・国家の起原」世界思想教養全集11巻362頁河出書房新社)への先祖返りというべきであろう。なぜなら、「原始共産制」は「マルクス未来社会論」と同様に、国家がなく、階級がなく、搾取がなく、財産は共有の、平等な社会とされるからである。

「人民公社」や「文化大革命」で大量の餓死者や犠牲者を出した毛沢東時代の中華人民共和国や、200万人を虐殺したポル・ポト政権による民主カンボジアはいずれも国家的規模で「原始共産制」を目指したとされている。

「マルクス未来社会論」すなわち「原始共産制」への先祖返りが人類の進歩に著しく逆行するものであることは明らかである。