1800年代中頃、南北戦争の時代にマンハッタンのスラム街を舞台にギャングの抗争を描いたマーティン・スコセッシ監督の『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2002)。
作品のもとになったのはハーバート・シュブリーによる1927年出版の同名タイトルの著書で、監督が本と偶然に出会ったのは1970年だった。ストーリーの中心は現在のチャイナタウンの一角に実在したファイブ・ポインツ(Five Points)と呼ばれたエリアで、監督の育ったリトル・イタリーからも近い。台本の初稿が完成したのは1978年で、2002年の完成までに脚本家を追加して推敲が重ねられたという。撮影は主にローマで、19世紀のニューヨークを再現するために長さ1マイルに及ぶセットが組まれた。
映画は、アイルランド移民のギャング「デッド・ラビッツ」と、大量に押し寄せる移民に危機感を抱く「ネイティブズ」の因縁の対決で幕を開ける。ネイティブズは移民排斥主義者で反カトリック、奴隷制廃止反対論者でもある。
1845年に始まった大飢饉により、アイルランドから大量の移民が海を渡った。90万人がニューヨークの港に到着し、1855年には市の人口の3分の1を占めるほどに膨らんだという。
デッド・ラビッツのリーダー、牧師のヴァロン(リーアム・ニーソン)は、この戦いでネイティブズの頭であるビル・”ザ・ブッチャー”カッティング(ダニエル・デイ=ルイス)に刺し殺される。それから16年後(南北戦争開始から2年目の1862年)、成人したヴァロンの息子アムステルダム(レオナルド・ディカプリオ)が街に戻り、復讐を計画する。
デッド・ラビッツは実在したアイルランド移民のギャングで、60年以上にわたりファイブ・ポインツで最も悪名高く危険な集団として恐れられた。マルベリー・ストリートが縄張りで、警察からはマルベリー・ボーイズとも呼ばれていた。
ダニエル・デイ=ルイス演じるビル・”ザ・ブッチャー”カッティングは、バワリー(Bowery)を拠点としたギャング、バワリー・ボーイズのリーダー、ビル・プールがモデルとなったとされる。映画では南北戦争まで存命となっているが、実際は1855年3月5日に銃撃によって34歳で死亡した。ニックネームのとおり親子代々の肉屋で、トライベッカにあったワシントン・マーケットで働いていた。町1番の喧嘩屋で、侮辱されるとすぐにキレる質だった。立派な体格の持ち主で、堀深くハンサム、黒髪で大きな髭を蓄えていた。
クライマックスで、ディカプリオ演じるアムステルダムとの戦いの末に「これでアメリカ人として死ねる」とセリフを吐いて息絶えるが、実際に「俺が死ぬなら、真のアメリカ人として死ぬ。最も悲しいのは、アイルランドの野郎、特にモリッシーに殺されると考えることだ」と言葉を残したとされる。ジョン・モリッシーは、連邦議員にまで成り上がったアイルランド移民のボクサーで、この前年にプールと決闘し、重傷を負わせていた。プールの死をめぐってニューヨークタイムズは当時、モリッシーが共犯者として逮捕されたと報じている。
映画では1846年にデッドラビッツとネイティブズが大規模な決闘を繰り広げるが、記録としては、1857年の独立記念日に2日間におよんだ乱闘「デッド・ラビッツ暴動」が知られている。デッド・ラビッツの関連ギャングがバワリー・ボーイズの拠点を襲撃したことに端を発し、街中のギャングが加わる全面戦争に発展した。鎮圧に軍3個師団の動員を要するほどだったという。負傷者は100人を超え、6人が死亡したと報じられた。
ブラックウェルズ島
父親の殺害から十数年経ち大人になったアムステルダムは、ブラックウェルズ島にある孤児院「ヘルズゲート」から解放され、故郷ファイブ・ポインツへと戻る。ブラックウェルズは聞きなれない名前だが、実はイーストリバーに浮かぶ小島ルーズベルト島の昔の名称で、同島には古くは刑務所、精神病棟、疫病患者の隔離施設が存在していた。現在も天然痘の病院跡が保存されている。ルーズベルト島歴史保存協会のジュディ・バーディ会長によると、ヘルズゲートはフィクションだが、1830年から1936年まで矯正院と刑務所があった。近くのランドールズ島には少年院が建っていたという。
アメリカ最悪のスラム「ファイブ・ポインツ」
5つの道が交わることにちなんで名付けられたエリアで、現在のマルベリース・トリートとモスコ・ストリート、ワース・ストリート、バクスター・ストリートがそれぞれを接する辺りに存在した。今は運動場を備えたコロンバス・パークと裁判所をはじめとする司法施設が立ち並んでいる。
辺り一体はもともと沼地で、淡水池があった。1800年代初頭に排水プロジェクトが行われ、新たな家々が立ち並んだが、地盤沈下が起こり中産階級が放棄したものがスラム化した。アメリカ最初のスラム街とされ、アイルランドやイタリア、中国移民、解放奴隷などで溢れていた。暴力と犯罪、アル中、売春の温床で、殺人事件は日常茶飯事だった。悪名の高さは海外にまで響いていた。
1842年に警官2人の付き添いの下で同地を訪れたイギリスの作家チャールズ・ディケンズは「ここがその場所だ。右と左に分かれるこの狭い道は、どこも汚れと汚物の匂いで充満している」「嫌悪感を抱かせるもの、しおれたもの、朽ち果てたものすべて揃っている」と街や生活の様子を記している。
過密な人口と地下の沼地が衛生環境を悪化させ、19世紀を通じてコレラのアウトブレークのほぼすべてが同地域から始まったとされる。