秀吉は強力な統一国家をつくりあげ、「太閤秀吉公御出生よりのこのかた、日本国々に金銀山野に湧き出て」(太田牛一)、国力も充実した。その鍵になったのが、明国からだけでなく、南蛮からも技術が入って、鉱山の開発や製錬の技術が向上したことだ。
南蛮人たちがやってきた時、明国は世界有数の技術大国だから大きな差は感じなかったのだが、産業技術が遅れていた日本にとっては、何世紀分もの遅れを取り戻す大チャンスだった。
また、明国や李氏朝鮮も衰退期に入って南蛮人に対応できなかった中で、東日本は徳川家康らに任せて、東アジアの新秩序を構築しようとしたのが秀吉だ。
鶴松が死んだことで、秀吉が悲しみを紛らわすために、朝鮮への出兵を決めたというが、間違いである。むしろ、弟の秀長や鶴松の死で秀次を後継者にした新しい体制をつくらなければならなかったのであり、これらは、海外進出が遅れた理由である。
明国征服という見通しを最初から秀吉が持っていたかといえば、そうではないと思う。夢物語としてはあったかもしれないが、それは海外進出に際して「世界市場でのトップになるつもりで頑張ろう」というようなものだ。
のちに琉球王国に対して徳川家康は、島津に奄美を割譲する、島津の代官を常駐させて国政を監督させる、中国との朝貢貿易は続けて良いが利益の分け前をよこすといった条件で服属させた。そのあたりが、落とし所だったはずだ。
※ 本記事の内容は『日本人のための日中韓興亡史』(さくら舎)、『令和太閤記 寧々の戦国日記』(ワニブックス)による。
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提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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