明治の県令・千田 貞暁(せんだ さだあき)
広島市が中国地方の代表都市となったのも一人の政治家に寄与するものが大である。その政治家とは千田貞暁、1886年に広島県令に就任した人物だ。
広島市は地形的に三角州によって出来ており、太田川が運ぶ土砂によって遠浅で大型船が陸地に接近できない状態にあった。それが原因で広島の産業の発展を傍んでいた。そこで堤防を築きその内側を埋め立てて行くことを決定。築港づくりだ。そのインフラの当初の見積もりは18万円余りとなっていた。それを人造石工法によって8万7000円まで節約できることになった。
1884年9月から工事が開始された。ところが、そこで養殖海苔や牡蠣づくりをしていた漁民が猛烈に反対。千田県令は彼らを説得し、漁民を干拓工事で雇うことを約束。ところが、その一方で、広島で国策として海軍の増強が計画された。その為資材が高騰。しかも自然災害にも襲われた。
それでも同県令の広島の発展にはこの築港工事の遂行は必要だとして2回の国庫補助金を仰ぎ、地元の富豪や県令本人も私財を投入。5年の歳月をかけて工事は宇品(うじな)港として完成した。ところがそれに要した費用は30万円。当初の3倍強の費用であった。それが原因で県令は懲戒を科せられ新潟県知事(その間に県令から知事と呼ばれるようになっていた)に転任させられた。それは竣工式の前であった。
完成した当初は築港の価値は認められなかった。その為、千田氏は批判された。ところが、1894年に日清戦争が勃発すると、中国大陸に最も近い兵站拠点として宇品港の存在が認められ軍用港として栄えた。そのあとの1905年からの日露戦争でも日本連合艦隊はこの宇品港から出向してロシア艦隊と対峙することになったのである。その間、広島には大本営と帝国議会が設けられた。
千田県令の広島を発展させるための信念と情熱の賜物である。1915年に千田氏の銅像が完成し、1925年には千田神社がたてられた。その地域は千田町と名前がつけられた。残念ながら、今では千田氏について広島の市民の多くはもう知らない。何しろ、70年代頃からは親も学校も子供たちに彼の偉業ついて教えないからである。筆者は宇品出身で帰国すると必ず千田神社を参拝して、そこでひと時佇むが、神社の前を通り過ぎて行く誰もが銅像と神社の前をただ素通りして行くだけである。神社に向かって会釈さえしない。
日本の首相たる人物は千田氏のように信念、情熱、気迫、愛情など人間的な魅力を身に着けているべきである。筆者の友人は「最近の首相は役場の総務課長レベルだ」と指摘した。その通りだと筆者も同感している。
提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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