東京大学大学院医学系研究科 総合放射線腫瘍学講座 特任教授 中川 恵一

東京電力福島第一原子力発電所のALPS(多核種除去設備)処理水の海洋放出が始まっている。

ALPS処理水とは、原子力発電所の事故で発生した汚染水からトリチウム以外の放射性物質を安全基準まで除去した水である。

福島第一原子力発電所において、処理水などを貯蔵しているタンクは、既に1000基を超えている。発電所の敷地に新しいタンクを設置する余裕はなく、廃炉作業を安全に進めるためにも、新しい施設を建設する場所が必要となっている。また、地震などの災害によるタンクの破損リスクも存在する。処理水を減らし、タンクを減らすことで、廃炉作業のためのスペースの確保が可能になる。

福島第一原子力発電所構内におけるALPS処理水等の保管出典:東京電力ホールディングス(株)ホームページ

トリチウムは天然に存在する水素の同位元素で、弱い放射線(ベータ線)を出しながら、ヘリウムに変化する。トリチウムは水として存在しているため、水の中からトリチウムを取り出すことは難しい。

トリチウムが出すベータ線が到達できる距離は水中で、平均0.56マイクロメートル、最大でも6マイクロメートルである。細胞の大きさは約10マイクロメートルなので、水として存在しているトリチウムのベータ線は細胞内の核中にあるDNAに影響を与えない。

一方、事故により環境中に放出されたセシウムは、透過性の強いガンマ線を出す。ベクレルで表示する放射能が同じでも、シーベルトで表す健康影響は、トリチウムの1000倍近くになる。

また、天然のトリチウムよりも少ない量ではあるが、原子力発電所からもトリチウムは発生しており、震災前も全国の原子力発電所から、年間で380兆ベクレル程度のトリチウムが海に放出されている。

東京電力は、トリチウム以外の放射性物質を国の定めた放出基準以下となるまで処理を行い、ALPSで取り除けないトリチウムも安全基準である1リットルあたり6万ベクレルの40分の1(1リットルあたり1500ベクレル)未満まで薄めて海洋に放出するとしている。今年度のトリチウム放出総量は、およそ5兆ベクレルを予定している。

実際のトリチウム濃度は、安全基準の3〜4百分の1近くまで希釈されていることが確認されている注1)。モニタリングの結果、放出地点から2~3キロメートル離れるとトリチウム濃度は周辺の海水と同程度になっていることも確認されている。処理水海洋放出設備のリアルタイムデータ注1)や各機関が分析したモニタリングデータ注2)はインターネットで確認することができる。

東京電力では、ヒラメなどを放出濃度の上限である1リットルあたり1500ベクレルに近いトリチウムを含む海水で飼育し、その影響を調査している注3)。ヒラメの体内トリチウム濃度は、24時間で海水の濃度より1割ほど低い程度まで上がり、その後、横ばいとなった。その後、通常の海水に戻すと、24時間で検出できないくらいの値まで体内のトリチウム濃度は下がった。すなわち、トリチウムが体内で濃縮されないことが確認されている。

飼育試験におけるヒラメ体内のトリチウム濃度変化出典:東京電力ホールディングス(株)ホームページ

仮に、1キログラムあたり1500ベクレルのトリチウムを含んだヒラメを毎日1キログラム食べたとしても、年間の被ばく量は0.01ミリシーベルトにしかならない。さらに、処理水の放出地点から数キロメートル離れるとトリチウムの濃度は周辺の海水と同程度になるため、影響はほぼ皆無と言える。

海洋生物飼育試験の様子提供:東京電力ホールディングス(株)

そもそも、私たちは毎日、放射線を浴びながら暮らしている。大地や宇宙から受ける外部被ばくと、食物中の天然の放射性物質や空気中のラドンから受ける内部被ばくを合計すると、日本の平均で年間2.1ミリシーベルトになる。さらに、日本の医療被ばくは2.6ミリシーベルトと世界トップクラスであり、自然被ばくと合わせると、1年で5ミリシーベルト程度の放射線を浴びている。海洋放出の影響は誤差の範囲と言ってよい。