公正を期すため書けば、陸幕の釈明にも疑問を覚えた。「公用車」を使用した経緯や、「集団での靖国参拝」について、くどくど説明する必要があっただろうか。参拝は「安全祈願のため」というのも言い訳がましい。

以上を前置きしたうえで、改めて朝日新聞に質す。

平成17年(2005年)10月17日、小泉首相が「一人の国民として」靖國神社を参拝した翌朝、朝日新聞は「負の遺産が残った」と題した社説を掲げ、こう批判した(翌18日付)。

首相は国を代表する存在だ。その行動が政治的な意味を持つ時、いくら私的と釈明したところで通用しないだろう。

それはおかしい。憲法上、首相は内閣の「首長」でしかない(66条)。内閣法は「内閣がその職権を行うのは、閣議によるものとする」と明記した(4条)。従って、閣議を経ていない以上、「私的参拝」を職権行為と見る余地はない。

だが、公用車に乗り、警護のSPを連れた点を指摘し、違憲な公的参拝とみなす裁判官や大学教授もいる。不謹慎とは思うが、性行為を例に「釈明」したい。

例えば、首相がSPとともに公用車でホテルに行き、異性と情事に及んだと仮定する。この場合、公的な性行為となるのだろうか。もちろん、なるはずがない。以上の道理を、首相参拝に当てはめても「通用しない」のだろうか。

そもそも、追悼や慰霊は職権行為(公務)に馴染まない。究極的には内心の問題である。私的な領域でしかあり得ない。神の前に立つとき、首相であれ、誰であれ皆、一人の人間となる。宗教とは、そうした世界のはずだ。

憲法20条は「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」とした。「私的参拝」まで違憲と非難するのは、朝日が大好きな日本国憲法を踏みにじる主張ではないだろうか。

蛇足ながら、朝日社説の題(「負の遺産が残った」)は重ね言葉である。「言葉のチカラ」を信じる活字のプロとしては恥ずかしい。朝日社説は負の財産を残した。

・・・当時、産経新聞紙上の連載コラム「断」で、そう批判したが(拙著『司馬史観と太平洋戦争』PHP新書所収)、暖簾に腕押し。案の定、今回も「負の遺産が残った」。

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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