革命派も立憲君主制を想定していた

当初は革命派もイギリスのような立憲君主制を想定しており、1791年憲法では国王が拒否権をもっていた。ここでは国民主権がうたわれ、税制も議会で決めることになったので、ここで終われば、大きな内戦もなく立憲君主制に移行していたはずだった。

ところが全国からパリに集結した革命勢力が1792年にオーストリアに宣戦布告し、戦争が始まった。当時のオーストリアは大国だったが、革命勢力がすべての国民を身分や年齢などに関係なく将軍になれる国民軍に組織したため士気が高く、フランス領内に侵入した敵国を駆逐した。

この戦争の混乱の中で王制の廃止が宣言され、1793年ルイ16世に死刑が宣告されたが、罪状は反革命勢力と結託したというだけだった。その後マリー・アントワネットにも死刑が宣告されたが、その罪状はほとんど何もなかった。

こうして国王と王妃を処刑したため、革命はコントロールがきかなくなり、革命勢力が王党派とみなした人を裁判なしで何千人もギロチンにかける恐怖政治が始まった。

戦争も恐怖政治も必要なかった

この経緯をみればわかるように、立憲君主制にする改革には国王も同意していたので、革命は1791年憲法で実質的には終わっていた。国王を処刑する必要はなく、まして王妃アントワネットには何の責任もなかった。

柴田三千雄氏なども指摘するように、財政の破綻した社団国家が崩壊したという点で、フランスと日本はよく似ているが、フランス革命では約200万人(ナポレオン戦争を入れると500万人)の死者が出たのに対して、明治維新では(西南戦争を入れても)3万人余りしか死んでいない。

これを「中途半端な上からの革命」という人がいるが、明治維新は名誉革命に近い「普通の革命」だった。むしろフランス革命のほうが異常で不要な暴力革命であり、これを典型的な「市民革命」として理想化したことが、ロシア革命などのもっと悲惨な革命を生んだのだ。

日本の左翼がいまだにフランス革命を理想化している背景には、こういう社会主義のなごりがある。それを模範として「民主主義を根付かせようと奮闘」する立憲民主党などの左翼勢力にはお引き取り願いたい。