ローマ教皇フランシスコは18日、国連の第3回「ヘイトスピーチ撲滅国際デー」に際し、「フェイクニュースやヘイトスピーチは人間の尊厳を奪う。私たちは、未確認の情報をひとまとめにしたり、ありきたりで誤解を招くスピーチを繰り返したり、憎しみの表現で他の人に衝撃を与えたりすることによって人類の歴史を紡いでいくわけではない。こうした行為は人々の尊厳を奪うものだ」と、ソーシャルメディアプラットフォームXで述べている。

インタビューに答えるアブエライシュ氏(2014年5月10日、アンマンの会議場で撮影)

国連のアントニオ・グテーレス事務総長は「ヘイトスピーチは、差別、虐待、暴力、紛争、さらには人道に対する罪の一つの目印です。ナチス・ドイツからルワンダ、ボスニア、そしてそれ以外でも、私たちはヘイトスピーチが使われるのを見てきました。ヘイトスピーチに、許容できる水準など存在しません。ヘイトスピーチを完全に根絶するために、私たちの誰もが努力しなければなりません。今日のヘイトスピーチは、幅広い集団を標的とし、往々にして人種、民族、宗教、信条、所属政党に基づいています。ここ数カ月では、反ユダヤ主義とイスラム嫌悪の両方のヘイトスピーチが、インターネット上や、影響力のある指導者たちによる公の発言の中で急増しています」というメッセージを公表している。

ところで、当方は「憎悪」という人間の感情に強い関心がある。人を憎んだり、特定の事例に強い反発を誘発するためには、強いエネルギーが必要だ。中途半端なエネルギ―では人を憎むことはできない。せいぜい「好き嫌い」の嗜好の範囲に留まるならば、それによってもたらされる被害は少なく済むが、一旦憎むとなればそうはいかない。一旦憎みだすと、相手を完全に破壊し、消滅させるまでエネルギーは止まらない。憎む相手、事例が消滅したとしても憎悪の対象を恣意的に捏造して憎み続けていくケースさえある。

「憎悪」という感情は人間だけが保有しているものではないか。犬が隣人の犬を憎んでいると聞いたことがない。昔から「罪を憎んで、人を憎まず」という言葉があった。悪行や過ちを批判し、非難するべきはその行為や罪であり、行為者自体を憎んではならないというのだ。これは人間の本質的な善良さや変わる可能性を信じる思想が含まれている。悪い行為をした人でも、その行為自体は非難に値するが、その人自身には改心や更生の余地があるという考えだ。キリスト教の「憎むべきは罪であり、罪人ではない」という教えに通じる。古代ローマの哲学者セネカ(紀元前4年-紀元65年)が「罪を憎んで罪人を憎まず」という考えを提唱している。「罪を憎み、人を憎まず」という言葉は大昔から伝えられてきた一種の戒めだろう。