もっとも、当時のたけしが五輪の歴史をもう少し知っていたら、こんな軽口を叩けたかどうか。
第五回夏季大会(ストックホルム)は、日本がアジア初で参加した大会として知られているが、もうひとつ、建築・文学・音楽・絵画・彫塑の五部門で芸術競技が行われた最初の大会でもあった。近代五輪の提唱者ピエール・ド・クーベルタン男爵はもともと、五輪とは肉体と精神の「偉大な結婚」と公言していて、芸術競技がこの第五回大会より設けられたのも、この信念からだった。
音楽部門の金メダルはイタリアのリカルド・バルテレミー「オリンピックの勝利行進曲」。日本からの芸術競技参加は、1932年のロス大会と36年のベルリン大会の二回で、後者の音楽部門で台湾生まれの江文也による「台湾の舞曲」が 選外佳作に選ばれている。
その後、1952年のヘルシンキ大会より芸術「展示」つまりメダル授与はなくなり、そしてほぼ40年後(1991年)、五輪憲章が改訂されて、こんな条項が加わった。
五輪委員会は文化イベントを必ず五輪の一活動として行い、その際にはIOC委員会の承認を得ること この活動は五輪の競技参加者やその関係者の調和、相互理解および友好を促進するものでなければならないこれを受けて翌1992年のバルセロナ大会は、世界各地から音楽家たちが招集された。現地出身のオペラ歌手ホセ・カレーラス(白血病から奇跡の回復を果たしていた)による音楽監督の下、ジェシー・ノーマン、サラ・ブライトマンらが参加。前年にエイズで亡くなっていなければフレディ・マーキュリーも熱唱を聞かせてくれただろう。
日本から(すでにニューヨークに拠点を移していたが)坂本龍一が招かれたのは、彼の楽曲がもともとラテンの和声感覚が豊かで「ぼくは日系ラテン人だからだって」とのことだが、もっと大きなきっかけは、前年に東京で開かれた世界陸上の開会式で、マスゲーム(演出は歌舞伎の市川猿之助)の音楽を彼が手掛けていて、その衛星中継がバルセロナのチームの目に留まったというところだろうか。
ちなみにジョン・ウィリアムズが演奏したロス大会のものは、白い大旗を持った白服の男たちが会場を駆けたり整列したりして人文字をいろいろ作っていくという、今見ると素朴といえば素朴なものだった。
ヘラクレスの塔バルセロナ大会の裏テーマとして、カタルーニャ自治州はもともと独立国であるというメッセージを世界に発信することがあった。ヘラクレスの神話をもとに、地中海の誕生からカタルーニャの自立までを、大勢の人力でマスゲームとして描き出す試みは、ロス大会よりずっと歴史的かつ神話的なものだった。
楽曲もそれを歌いあげるにふさわしい作りとなった。
ミ~レ~ミ~ラ~/ラ~ソ~ラ~レ~/レ~ド~レ~ソ~/ソ~ファ♯~レ~ミ~
この一見素朴な旋律、実は…
ミ~レ~ミ~ラ~/ミ~レ~ミ~ラ~/ミ~レ~ミ~ラ~/ラ~ソ♯~ミ~ファ♯~
…と歌っている。
色分けすることで転調の様を視覚化してみた。青のドレミはC長調、赤はF長調、緑がB♭長調で、紫がG短調である。
C長調 → F長調 → B♭長調 → G短調
下の円は「四度圏表」といって、音楽における九九表である。
右回りに転調していくのが定石で、左90度で戻るのは、長調が短調(というか平行短調)に軸足を移す時だ。
さらに作曲者の才気が炸裂するのがここだ。ソとファにそれぞれ♯が付いている。これは「旋律的短音階」の証となる音だ。
この音階は、短調音階のなかで上昇感が最も強い。
しかし下降のときは、ソとファから♯が消える。
面白いことに、この小節において旋律は下降寄りでありながら、ソ♯とファ♯が使われている。
これは「この後もっと盛り上がっていくよ」という音楽的予告である。(モーツァルトの41ある交響曲のうち最高傑作とされる第40番の出だしで使われている)
モーツァルトの和音実際、続く小節でさらに盛り上がっていく。
青のドレミは F短調で、さらに「ソ」に # が付いていることから「和声的短音階」である。
この音階を使うと、ラ↘ソ♯↗ラ の動きのとき、その後の旋律がドラマチックに上昇する。(「コンドルは飛んでいく」を口ずさんでみてほしい)
青のドレミが赤に変わるとき、F短調はF長調に性転換し…
続いてG長調(緑色)に転調し…
さらにはA長調に転調する。
F短調→F長調→G長調→A長調… ファ→ファ→ソ→ラの順に、階段を一段ずつ上がっていくかのような転調だ。
これが不自然に感じられないのは、前述の「モーツァルト和音」が機関車となって、続くパートを(一小節毎に)押し上げているからだ。
ちなみに旋律についても「モーツァルト和音」の後、完全5度の大股になるのが心憎い。
それからこの旋律、小節から小節にかけて同じ音を置くという、ベートーヴェンの「歓喜の歌」と同じ作りであることも付記しておこう。
聖母マリアの救済さらにもっと凄い技が使われている。この小節、A長調(紫のドレミ)であると同時にD長調(茶のドレミ)でもあるのだ。
どちらの調とも取れるよう、音符が慎重に選ばれている。四度圏表でいうと、9時と10時の両方に針が向いている感じだ。
その後バトンがここ(黒枠の小節)に渡るや、すべてが土けむりに包まれ、何がどうなったのか分からない、そんな感じの和音が響く。
増四度音程と呼ばれる、不安な響きが仕込まれているからだ。実はひとつ前の小節(茶色の枠)にもこの音程はあって、それがあると次で不安を一掃するような和音に進むのが定石なのだが、そうはならないで、違う増四度音程を含むこの和音(黒枠)になだれ込む。D長調→G長調の転調とともに。
瓦解による土けむりが収まっていくと、やがてとある曲が奏でられる。カタルーニャの賛美歌「ヴィロライ」の旋律だ。
モンセラート山の聖母よ 四月のバラ、我らがマリアよ カタルーニャに光を 我らを天に導き給え
この曲は、和声こそD長調だが、この旋律部分はG長調とも取れる。
つまり、瓦解と土けむりの和音(G長調)から、この賛美歌の旋律前半(G長調風)にバトンが渡り、和声を介してD長調にも移行する。
同作曲者が手掛けた、映画「ラストエンペラー」(1987年)エンディング曲は、転調に次ぐ転調だった。時代の波に翻弄される、悲劇の幼年皇帝の生涯を歌い上げるかのように。
だがこの五輪開会式曲「地中海」(1992年)は、激しい転調を繰り出しつつも、カタルーニャの民が力を合わせてヘラクレスの怪力を生み出し、地と海を制し、天の聖母マリアの下、調和に至るという、力強さに満ちている。
「ろーれんす!めりーくりすます」それから映画「戦場のメリークリスマス」(1983年)の、あの有名なテーマ曲のイントロ♪ミレミラミレ と同じ「ミ、レ、ラ」の音型が使われていたのも興味深い。
この素朴な音楽フレーズは、ラ長調ともレ長調ともソ長調ともド長調ともファ長調(さらにはこれらの平行短調)ともなじんでしまう、いってみれば民族主義を超越した音型だ。
それが転調の技で反復され、カタルーニャの象徴たる賛美歌の旋律に迎えられ、この二和音で締めくくられる。
これは「♪アーメン」の合唱で歌を締めくくる時に使われる、祈りの終止形だ。民族主義と協和は両立するのだと、五輪開会式の大舞台で、衛星中継を介して日本出身の音楽家が(左利きでありながら地元オーケストラのために右手で指揮棒を振って)全世界に向かって祈り上げたのは特筆に値する。
東西冷戦の終結後、初の夏季五輪で歌われたこのロマンも、今や冷笑視されて久しい。あれから32年を経た現在、今度のパリ大会は、どんなロマンが歌われるのだろう。