先週出ました財務省の広報誌『ファイナンス』の7月号に、「「ユーラシア時代」の日本文明論」を寄稿しています。PDFで全文読めますので、よろしければこちらから。
4月に同省にて行った講演の活字版で、内容は(当時、刊行直前だった)呉座勇一さんとの共著『教養としての文明論』をご紹介するもの。
もちろんオリジナルの部分もありまして、たとえば以下の一節が重要です。
「空虚な楽観」の2010年代 いまという時代を捉えるとき、直近の前史に当たるのが2010年代です。当時はまだ、今日振り返ると意外なほどに楽観主義、オプチミズムの論調があらゆる分野を席巻していました。 2011年の前後から、海外では「アラブの春」や「Occupy Wall Street」、国内では脱原発デモの潮流が台頭します。「民衆の力を結集し、みんなで立ち上がれば、 世の中は良くなる」といった、素朴なデモクラシーへの信仰が高まりました。 それが収束した10年代の後半には、「AIとロボットに任せれば上手くいく」という発想が人気になります。社会問題は技術の進歩で解決できるとするテクノロジー信仰です。同時に流行したのが「国債はいくらでも発行でき、財源は無限にある」と唱えるMMTの経済論。 立場こそ多様であれ、あらゆる人が楽観的なことを語り、「問題は解決できる、というかすでに解決している」といった言論ばかりが注目を集めました。
「投げやりなニヒリズム」の2020年代 ところが20年代の頭に新型コロナウイルス禍に襲われると、世相が一挙に暗転します。10年代の楽観論には「根拠がなかったのでは?」と疑う空気が広がり、180度逆の極論へと偏っていきました。「どうせ世の中はダメだから、どうだっていい。自分さえ愉しければいい」とする、露悪趣味で攻撃的なニヒリズムが主流になります。 たとえば「AIが人間を抜くことはない」と多くの学者が論証しているのに、いつまでも「人間はAIに抜かれる」という話に固執する人がいる。彼らは実は、AIが好きなのでもなんでもなく、「人間に価値なんてない、だから他の人に共感せず無視していい」と言いたいだけなんですね。 2022年から続くウクライナ戦争でも、近日はウクライナの敗色が濃くなり、「結局は力がある方が勝つのだ。正義や民主主義なんて関係ない」といったシニシズムが高まり始めています。
強調を附し、一部改行