信長は黒人の黒い肌に驚き、最初は墨を塗ったのではないかと疑った。この黒人は少し日本語が話せたので、信長は彼と話した。彼は非常に力持ちで少し芸ができたので、信長は彼を扶持することにした(おそらく宣教師たちが信長に献上したのであろう)。信長は彼を「殿」にするとの噂もあったという(松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集 第3期 第5巻』同朋舎出版)。
イエズス会日本年報には「弥介」という名前は記されていないが、状況から考えて、この時に信長が扶持することにした黒人が「弥介」である蓋然性は高い。
この話は日本側史料からも裏付けられる。信長に近侍した太田牛一が著した信長の一代記『信長公記』の巻の十四(天正九年辛巳)を見てみよう。
二月廿三日、きりしたん国より、黒坊主まいり(参)候。 年之齢廿六七と相見へ、 惣之身之黒キ事、牛之こと(如)く、 彼男器量すく(健)やかにて、 しかも強力十之人に勝れたる由候。 伴天連召列(つれ)参、御礼申上候。 誠以御威光古今不及承(承り及ばず)、 三国之名物又かやう(斯様)に珍寄(珍奇)之者共余多拝見仕候也。
宣教師たちが黒人を連れてきたこと、その黒人は十人力の怪力であること、宣教師たちが信長に黒人を献上したことなどが記されており、イエズス会関係史料と記述が一致する。
さらに興味深いのは、『信長公記』の伝本の一つである尊経閣文庫本には、前掲の記述に続いて、以下のように記されている事実である。
然に、彼黒坊被成御扶持、 名をハ号弥助と、 さや巻之のし付幷私宅等迄被仰付、 依時御道具なともたされられ候。
尊経閣文庫本『信長公記』によれば、この黒人は「弥助」と名付けられ、鞘巻の熨斗付(装飾刀)と私宅(屋敷)を与えられたという。
この記述に従えば、弥助は明らかに信長の家臣、すなわち武士(侍)として遇されている。名字が与えられていないから侍ではなく、中間(侍より下の武家奉公人)なのではないかといった意見もネット上で見られるが、中間が刀と屋敷を与えられることは考え難い。いずれ名字が与えられる予定だったという解釈が成り立つだろう。加えて、弥助は時に信長の道具持ちもしていたというから、信長に近侍していたと考えられる。
前述したように、宣教師のロレンソ・メシヤは「人々が言うには、(信長は)彼(弥助)を殿にするであろうとのことである」との噂を記している。「殿」と言うからには、一国一城の主とまで行かないにせよ、弥助が知行を取り家臣を抱える身分になるということだろう。
尊経閣文庫本『信長公記』に見える、弥助に対する信長の厚遇を考慮すると、弥助が「殿」に取り立てられるという噂もあながち的外れとは言えないかもしれない。
ただし、弥助が刀と屋敷を与えられたという記述が、『信長公記』の伝本のうち、尊経閣文庫本にしか確認できない点には、留意する必要がある。
織田信長研究で知られる東京大学史料編纂所教授の金子拓氏によると、尊経閣文庫本は、太田牛一の末裔で加賀藩前田家に仕えた加賀太田家に伝わった自筆本を太田弥左衛門一寛(牛一の4代あと)が享保4年(1719年)に書写して前田家に献上したものだという(加賀太田家に伝わった牛一の自筆本は火災のため焼失)。
以上の伝来経緯から、尊経閣文庫本は一定の信頼性を持つ写本とみなせるが、弥助が刀と屋敷を与えられたという記述が書写過程で付け加えられた可能性は否定できない。
金子氏は、黒人の名前を「弥介」とする一次史料である『家忠日記』天正十年四月十九日条(前掲)に依拠して太田一寛が創作したという見方も不可能ではない、と指摘している(金子拓『織田信長という歴史――「信長記」の彼方へ』勉誠出版)。仮にこの見方に従えば、弥助の名字に関する記載がないという疑問も解消される。
弥助が武士(侍)に取り立てられたという説の根拠は、尊経閣文庫本『信長公記』のみであり、弥助を「黒人のサムライ」と断定するのには慎重であるべきではないだろうか。