作り話ゆえの説得力

ロックのカリスマ、故デヴィッド・ボウイが「私はステージで殺されたい」とかつて名言を残したという。「現実世界が不幸なぶん、カリスマは輝く。私はステージで殺されたほうが本当はいいのだ」 と。日本のロック批評家による作り話とも言われているが、面白いので紹介する。

京アニが日本のアニメファンの間でカリスマとなったのは、日本のアニメ産業の構造的暗部の裏返しだっただけでなく、まばゆいアニメの夢想に金を費やし続ける、現代日本のポップカルチャー消費者たちのみじめな現実ゆえだった、ともいえるのではないか。

京アニは、大手出版社から刊行されている人気まんがや人気ラノベを原作にするのではなく、自社で小説投稿コンテストを毎年催して、最優秀作品は自社でアニメ化すると喧伝していた。これはいってみれば企画からアニメ制作から出版から商品化までを一社で統括的に行うという、独り勝ちの王国を目指すものだった。自社ブランドを活かして、理想の労働環境とともにアニメを作っていくための高邁な目標ではあったろう。

だがそれはリスクの分散とは真逆の道だった。放火犯の履歴を見ると、幼少より、あまり幸せとはいえない道を歩かされた男のようだ。高校でブラック部活動を言葉巧みに生徒たちに強いる音楽教師(私が校長なら厳しく叱責するだろう)を美化してアニメの青春物語に昇華してみせるような、奇跡のアニメスタジオは、彼にとってはまばゆいカリスマだったろう。自分の書いた小説を、読んでもらって、それがアニメになって、原作者として知られるようになったら、どんなに幸せだろう・・・

夢は叶わなかった。憧れは怒りに変わった。そしてカリスマへの復讐心を燃やした。ガソリンを携行缶に詰めて、乗せ台でスタジオの入口ホールに運び込み、火をつけた。巨大な力と力がせめぎ合う断層の、まさにど真ん中で、爆発が起きた。長くくすぶっていた地殻エネルギーが、さらけ出されたのだった。

フェアトレード運動破綻とその後

コロナ禍の発生と終息を挿んで、今年1月、放火犯は京都地裁で死刑を言い渡された。最高裁まで争うことになりそうだ。

先月(6月)最終日、京アニの残されたスタッフの手で、ブラック部活動アニメの完結編最終回が放映された。主人公はその後、教師として母校に戻り、同部活動を支えていくという締めであった。ネット上には感動と称賛の声があふれた、不屈の京アニであると。

そうだろうか…

死者36名、重軽傷者32名という大惨事より早5年。ことばにならない違和が、ひねくれ者の私のなかに、今も残りつづけている。涙とともに。

久美 薫 翻訳者・文筆家。『ミッキーマウスのストライキ!アメリカアニメ労働運動100年史』(トム・シート著)ほか訳書多数。最新訳書は『中学英語を、コロナ禍の日本で教えてみたら』(キャサリン・M・エルフバーグ著)。