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メディアによる紹介でどんどん有名になっていった787B
第2回日本GPから本格的となったマツダのモータースポーツ
メディアによる紹介でどんどん有名になっていった787B
過去にMOBYが推す名車を紹介した【MOBY推し車】企画で、特に好評だった車種の記事をセルフリメイクで紹介する【MOBY推し車リバイバル】、今回は市販車ではなくレーシングカー、ル・マン24時間レースをロータリエンジンで唯一制したマツダ787Bです。
前回“実況は「言葉になりません!」を連呼…世界がマツダ 787Bのル・マン優勝に驚嘆した日【推し車】”紹介した通りの激闘で、優勝当時というより後にメディアで取り上げられてからの方が有名になり、普段はマツダミュージアムで身を休めつつ、イベントでのデモランも盛んになったので、実物の全開走行を目にした人も多いことでしょう。
レースそのもののエピソードは前回で紹介しましたから、今回は787Bまでに至るマツダモータースポーツの道のりを絡めた話とします。
第2回日本GPから本格的となったマツダのモータースポーツ
2024年現在では「スポーツ性も高いプレミアムブランド」という雰囲気が濃いマツダですが、自動車メーカーとしての始まりは商用車がメインで、オート三輪の名門として戦前からダイハツと並び立つ存在でした。
戦後も需要の主力はトラックなど商用車、それにタクシーといったところですから、マツダもオート3輪のタクシー版なども作りつつトラック中心で復興していきますが、1960年に軽乗用車の「R360クーペ」でいよいよ4輪乗用車へ参入。
1962年には当初2ドア、すぐに4ドアも追加した軽乗用車「キャロル」(初代)を発売し、スバル360のシェアを奪う大ヒットとなりました。
1963年に鈴鹿サーキットで開催された「第1回日本グランプリ」にキャロルは出場せず、R360クーペが数台のみで結果は振るわなかったものの、翌1964年には5台のキャロルが出場。
ワークス体制でキャロルにフルチューンを施し、後にロータリー軍団を率いてスカイラインGT-Rを撃破、ル・マンでも1990年まで活躍したエース・片山 義美を起用して、スバル360とスズライト・フロンテのトップ争いに割って入る大活躍でした(結果は4位)。