周布は酒癖が悪く、文久2年(1862年)11月には、梅屋敷と呼ばれた江戸の長州藩邸において、訪れた土佐藩士を前に土佐藩の前藩主・山内容堂を侮辱する発言をして、あわや流血事件になりかけた(梅屋敷事件)。

後日、長州藩は容堂に謝罪し、周布に長州への帰国を命じた。しかしこれは土佐藩へのポーズにすぎず、周布に改名させた上で引き続き江戸で勤務させた。それほど彼の能力を買っていたのである。

ただし長州藩の抜擢主義は良いことずくめではない。優秀な人材に入れ込み過ぎて、長州藩は滅亡寸前まで行った。

長州藩は当初、幕府が行った開国を認める「航海遠略策」を藩論としていた。ところが長州藩士で急進的な尊王攘夷論者であった久坂玄瑞は、幕府に媚びるかのごとき長州藩の態度に不満を持ち、藩や身分の壁を越えた尊王攘夷運動を積極的に展開した。

なお、この時、久坂が尊王攘夷運動のシンボルとして祭り上げたのが、安政の大獄で刑死した師の吉田松陰である。現代にまで続く松陰の神格化の火付け役は久坂なのだ。

尊王攘夷熱が高まる中、文久2年5月、長州藩は航海遠略策を提唱した長井雅楽を謹慎させた(翌年切腹)。7月には航海遠略策を正式に放棄し、孝明天皇の意志を重んじて速やかに攘夷を実行することを決した。8月、久坂は、孝明天皇の許可なく西洋列強と条約を結んだ幕府を断固非難し、朝廷中心の政治体制を構築すべきと長州藩に上申し、採用された。

周布ら藩首脳部は、西洋列強を敵に回すことが可能だと本気で考えていたわけではない。周布は「攘夷して後、開国すべき」と唱えていた。ホンネでは開国するしかないと思っていたのである。しかし長州藩は、条約を破棄すべきと説く久坂に引きずられて過激な尊王攘夷路線を突き進む。

久坂玄瑞Wikipediaより

久坂は弁舌巧みで藩外の志士たちとも広く交流を持った。活動家としては一流だったが、現実的な政策を考えられる人物ではなかった。だが京都政局に疎い藩首脳部は、久坂の情報と人脈に依存せざるを得ない。久坂の過激論に従って暴走する長州藩は、公武合体(朝廷と幕府の協調)を志向する孝明天皇の信任を失い、文久3年8月には親長州の公家たちが失脚した(八月十八日の政変)。

長州藩では、久留米脱藩浪士の真木和泉の影響もあり、武力を背景に朝廷に嘆願して名誉回復を目指す進発論が盛んになった。当初、慎重であった久坂だったが、一橋慶喜と島津久光の対立など政局の混乱を好機と見て、進発論に傾く。

久坂は慎重派の桂小五郎(木戸孝允)に宛てた書簡において、「攘夷は成算を考えて行うものではなく、『国体』を立て『大義』を成すために、一点の迷いもなく行うものである」と説いている。できるかどうかではなくやるんだという主張は、活動家特有の観念論と言わざるを得ない。

元治元年(1864年)7月、長州藩復権を目指す久坂らは兵を率いて上洛し、御所を守護する会津藩・薩摩藩の軍勢と戦い敗れた(禁門の変)。久坂は自刃した。

幕府は長州征討の軍を起こし、動揺した長州藩では幕府への絶対恭順を主張する「俗論派」が台頭し、追いつめられた周布は切腹した。長州藩の悲劇は、才気煥発な久坂一人に頼りすぎた点にあったと言えよう。

俗論派の藩政掌握により逼塞していた上級藩士の高杉晋作は12月、俗論派打倒のために挙兵した。高杉らは藩政府軍を各地で撃破、翌慶応元年2月には政権を奪取した。かくして長州藩は幕府との対決に踏み出していく。

上海視察で西洋列強の軍事力を目の当たりにした高杉は、久坂のような精神論による攘夷からは距離を置いていた。一方で、将来へのビジョンを持たない幕府に政治を任せていては、西洋列強に対抗できる国づくりは不可能とも考えていた。高杉晋作・桂小五郎(木戸孝允)ら現実的かつ開明的な官僚が藩政を担うことで、長州藩は息を吹き返した。

島津斉彬・久光に率いられた薩摩藩と異なり、藩主のリーダーシップが乏しい長州藩は藩論を二転三転させ、かなりの回り道を強いられた。若手・新人を活躍させる組織運営は手放しに賞賛されがちだが、それはトップの資質が伴ってこそであることを痛感させられる。