アメリカの歴史的な分断と衰退

  1. アメリカ合衆国憲法起草時の分断

    アメリカ合衆国憲法は、1787年に作成され、1788年に発効し、現在も機能している世界最古の成文憲法だ。この憲法の制定には、連邦派と反連邦派と呼ばれる対立があった。連邦派(Federalists)は、連邦政府の強力な権限を支持する立場であり、憲法起草者アレクサンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton)などが連邦派に所属していた。ハミルトンは、古き英国の法思想「法の支配」に基づくコモン・ロー化した憲法を生み出した立憲主義の著名な思想家である。

    これに対し、反連邦派(Anti-federalists)は、中央政府の権限を制限し、各州の権利を保護する立場だった。この対立により、憲法には連邦政府と州政府の権限分散が盛り込まれ、州の自治権が強調された。中央政府の強い権力に反対する立場で、トマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson)などが反連邦派に所属していた。ジェファーソンは、アメリカ独立宣言(1776)の主要な執筆者であり、アメリカ合衆国の共和制の理想を追求したことで最も影響力のあったアメリカ合衆国建国の父の一人である。

    両派の対立は、憲法制定会議での議論を活発化させ、最終的には、両派の妥協により、アメリカ合衆国憲法が制定された。だが、この両派の対立は、その後の南北戦争の原因となる。

  2. 南北戦争

    1861年から始まった南北戦争の際にも、連邦制や奴隷制をめぐる対立が戦争の原因となった。

    南部の州は奴隷制度を維持し、北部の州は奴隷制度廃止を求めていた。南部は農業中心であり、北部は工業化が進んでいたため、両者の経済的利害が対立した。南部の州は連邦政府の権限を制限し、州の権利を主張していたのに対し、北部は強力な中央政府を支持していた。

    1861年4月12日、南部の軍隊がフォート・サムターを攻撃し、戦争が勃発した。両軍は激しい戦闘を繰り広げ、有名な戦場となったゲティスバーグ、アンティータム、シャイローなどでは多くの犠牲者が出た。

    1863年、エイブラハム・リンカーン大統領はエマンシペーション宣言を発表し、奴隷制度を廃止した。これにより、戦争の目的が奴隷制度の廃止にも拡大されることなった。

    1865年、北軍が南部の首都リッチモンドを占領し、南部の抵抗が崩壊して、南軍の将軍ロバート・E・リーが降伏したことで南北戦争は終結した。

    この戦争による犠牲者数は、60万人以上とされ、世界的にも内戦としては最大級のものだった。この南北の対立は、その後も尾を引くこととなり、現在もその影響を見ることができる。

  3. 現在のアメリカの分断と衰退

    2000年代以降、アメリカの政治は極端な分極化が進んでいて、共和党と民主党の対立は、南北戦争以来といわれるほど根深いものとなっている。支持者の間には強烈な敵対意識、恐怖、憎悪が存在しており、相手を敵や脅威と見做す傾向が強まっている。

    この分断の背後には、2大政党の支持基盤に起きた3つの巨大な変化があると言われる。①公民権運動により、南部の白人が共和党に移り、選挙権を得た黒人の大半が民主党員になった。②中南米やアジアからの移民の大半が民主党員になった。③レーガン政権以来、福音派は圧倒的に共和党支持になった。

    これらの要因が絡み合い、アメリカの政治の分断を形成している。このほか、アメリカの経済政策の失敗による所得格差の増大、人種的対立の激化、一部の産業の衰退など、その対立の根本は複雑で根深く衰退の原因となっている。トランプ氏の登場はその象徴的出来事でしかないが、対立は国際情勢にも影響を及ぼし、同盟国との間での亀裂を生み出しかねない。

    日本の対応

    こうしたアメリカの分断と衰退に対して、日本はどう対応したら良いのだろうか。

    ① 外交力の強化:日本は日米同盟を基軸に、他国との協力を進めることで国際的な分断を防がなければならない。特にインド太平洋構想の推進とNATOとの連携強化はこれからの国際情勢を踏まえて極めて重要だ。

    ② 防衛力の強化と文民統制の確保:日本の周辺国である中国、ロシア、北朝鮮の軍事冒険主義を抑止するためにも防衛力の強化は喫緊の課題だ。だが、あまりに強大な軍事大国となれば、東南アジアや太平洋諸国などに余分な警戒感を生んでしまう。文民統制を守りながらも防衛力を強化することが求められている。

    ③ 多様性の尊重:日本が米国と並ぶリーダーとならざるを得ない状況となっていることを理解しなければならない。だが、自国民ファーストになることなく、複数の国や民族の多様性を受け入れる姿勢を持ち、対話と理解を重視して、共通の目標に向けて協力することが重要だ。

    藤谷 昌敏 1954(昭和29)年、北海道生まれ。学習院大学法学部法学科、北陸先端科学技術大学院大学先端科学技術研究科修士課程卒、知識科学修士、MOT。法務省公安調査庁入庁(北朝鮮、中国、ロシア、国際テロ、サイバーテロ部門歴任)。同庁金沢公安調査事務所長で退官。現在、JFSS政策提言委員、経済安全保障マネジメント支援機構上席研究員、合同会社OFFICE TOYA代表、TOYA未来情報研究所代表、金沢工業大学客員教授(危機管理論)。主要著書(共著)に『第3世代のサービスイノベーション』(社会評論社)、論文に「我が国に対するインテリジェンス活動にどう対応するのか」(本誌『季報』Vol.78-83に連載)がある。

    編集部より:この記事は一般社団法人 日本戦略研究フォーラム 2024年7月8日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は 日本戦略研究フォーラム公式サイトをご覧ください。