子の朝頼は従四位上・勘解由長官にとどまったが、孫の為輔は、尾張守や太宰権帥などを歴任し権中納言となっており、宣孝の父親だ。花山天皇の蔵人(侍従のようなもの)や筑前守、山城守、正五位下・右衛門権佐(皇宮警察幹部のようなもの)を歴任した。
紫式部の父である為時は、高藤の弟で従四位上・右近衛中将だった利基のひ孫である。利基の子の兼輔は、和歌・管弦に優れた文化サロンの中心人物で、鴨川堤に優雅な邸宅を建てたので「堤中納言」と呼ばれた。百人一首に「みかの原わきて流るる泉川いつ見きとてか恋しかるらむ」という歌が収められている。
その子の雅正も文化人で、従五位下・周防守だったが、前記の右大臣定方の娘を妻として生まれたのが為時だ。為時は花山天皇の家庭教師のような立場で、式部丞を務めたことがあるので、その娘であることが紫式部の名前の起源だ。
しかし、藤原道長の父兼家らが仕込んだ天皇の出家で為時も失脚して不遇が続いたが、道長に嘆願文を書いたのが功を奏して越前守となり、紫式部も同行して福井県の越前市に住んだ。紫式部は任期途中で単独で帰京し、かねて求婚されていた宣孝と結婚し、娘をもうけた。だが結婚後、わずか4年で宣孝は死去。「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」はその時の紫式部の歌である。
その後、未亡人となった紫式部は女房として出仕し、藤原道長の長女で一条天皇の中宮となる藤原彰子に仕えた。26歳の頃である。賢子(大弐三位)という娘が生まれたが、先述の通り、夫は結婚してから4年で亡くなった。また、父の為時は、その後、越後守として赴任している。
いずれにしても、為時や宣孝は、いまの政治家に例えれば、代議士を何期か務めた後知事に転じて2期ほど務めたとか、官僚に例えれば、本省の部長クラスから地方出先の長になってキャリアを終えたといったあたりで、貧乏貴族とはいえない。
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提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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