NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートした。原作が『源氏物語』だと誤解していた人も多いが、大石静氏のオリジナル脚本で、主人公は光源氏ではなく紫式部である。「どうする家康」があまりにも酷かったのとは対照的に、なかなか好評のようだ。

ダイヤモンド・オンラインの記事で、非常に濃厚に、いくつもの流れで、紫式部のDNAが今上天皇や日本の名門に及んでいるか解説したので、ご覧頂きたい。

それと同時に、ドラマでは貧乏貴族の娘という位置付けになっているが、そんなことはありえないことを説明したので、そのあたりを紹介しておこう。

光る君へ NHKより

父親の藤原為時は、花山天皇の側近で、越前や越後という大国の国司まで務めたし、夫の藤原宣孝は、太宰少弐や山城守だったのだから、相当豊かな生活が可能だったはずだ。

摂関家の祖と言われる冬嗣の子のうち良房が摂関制をはじめたわけだが、男子がなかったので兄である長良の子・基経が養子になり、その玄孫(やしゃご)が道長で、その子孫から五摂家が出ている。これが摂関家といわれる藤原本家である。紫式部の母も、基経の弟である清経の子孫である。

一方、良房の弟である良門の子孫は、醍醐天皇の母を出したからそこそこ栄えた。高藤はあまりさえない経歴の貴族だったが、『今昔物語』によれば、山科へ鷹狩りに出かけた際に雨宿りをした宇治郡司宮道弥益の家で、娘列子と一夜の契りをもって得た胤子が、源定省の妻となったという。

ところが、源定省の父がひょんなことから皇族に復帰して光孝天皇となり、定省も宇多天皇に、胤子の産んだ子が醍醐天皇となった。このことで一族に幸運が開け、高藤は内大臣に、その子の定方は右大臣になった。このあたりの経緯は、『源氏物語』において、光源氏が明石に隠棲中、明石の君に生まれた明石女御が中宮となるストーリーにヒントを与えた。

紫式部の夫宣孝は、その直系の子孫である。高藤の子の定方は、三条右大臣として知られ、小倉百人一首にも「名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな」という歌が収められている。