だのに、「既に安倍派幹部が政倫審で説明しており、それ以上は弁明のしようがない。さらし者になるだけだ」(清和会のベテラン議員)などと、折角の弁明の機会を活かさないから、いつまで経っても「けじめ」がつかない。派閥を潰した岸田総裁が、議員一人ひとりをなぜ説得しないのか不思議でならない。

「全会一致の議決の効力」は、衆院は解散総選挙に伴う失職で失われ、参院はいつ消滅するか未定とされる。ならば自民党から「閉会中の政倫審開催」を求めよ。幹部の説明と同じでも、それが事実ならそう述べれば良い。「裏金議員」呼ばわり払拭のためにも、還流金は政治資金に使ったと断言せよ。

但し、一言付け加えれば、混然一体となって巷間議論されている「パーティー」、「還流」、「不記載」の相違について、政倫審という弁明の場でしっかり整理して、国民に伝えることだ。なぜなら、このうち政治資金規正法に抵触するのは「不記載」だけだからである。

清和会には長年、派閥のノルマより多くパーティー券を売った金を議員に「還流」する慣行があった。安倍氏が亡くなる前の3月に「やめるべき」と派閥幹部に述べたのはこの「還流の慣行」であって、管見の限り「不記載」ではないようだ。「還流」と「不記載」の混交は事の帰趨に極めて重大な影響がある。

政倫審で清話会幹部は、会計責任者任せで「不記載」を知らなかったと述べた。安倍氏もそういう一人だったのではなかったか。無論、うっかり知らなかったとしても「政治的道義的」責任は免れない。が、「犯意」の有無、即ち「過失」か「故意」かでは、罰条も国民の心象も大いに異なる。

さて、漱石は明治33年5月に英語教育法研究のため文部省から英国留学を命じられ、約2年半後の明治36年1月に帰国する。子規の死は明治35年9月だから、漱石は子規の死に目にあえなかった。ロンドンで訃報に接した漱石は12月1日、高浜虚子に宛てた書簡にこう書いている。

小生出発の当時より生きて面会致す事は到底叶ひ申すまじくと存じ候。これは双方とも同じやうな心境にて別れ候事故今更驚きは致さず、ただただ気の毒と申すより外なく候。但しかかる病苦になやみ候よりも早く往生致す方あるいは本人の幸福かと存じ候。

冒頭に記した漱石書簡は、正確には「二豎の膏肓に入らざる前に英断決行の有之たく」・・「雨降らざるに牗戸(ゆうこ)に綢繆(ちゅうびゅう)す」と書かれている。即ち、鳥が雨の降らぬうちに巣を繕う様に、病気が悪化して治療のしようがなくなる前に、病院でしっかり治療することを促していた。

自民党の「英断」が「岸田総裁の懺悔」であることは前掲拙稿に書いた。が、それがなされない以上は党自らが「政倫審の開催」を求め、その場で衆参両院議員73名がありのままを述べることが、次善ではあるが「英断決行」だ。

それでも国民は納得しないかも知れぬ。が、それなしに自民党再生の途はない。自民党議員には、「かかる病苦になやみ候よりも早く往生致す方あるいは本人の幸福かと存じ候」などと国民を嘆じさせることのないよう「英断決行」を求める。目下の状況は不治の「病苦」などではない。