面白いもので、6月は作家の堀田善衛の旧著である『インドで考えたこと』にすっかりハマってしまった(ヘッダーも同書より)。NewsPicks の動画で採り上げた箇所については別の記事でも書いたけど、せっかくなので備忘のために追記。

詩人でもある尾久守侑さんとの対談で話題にしたとおり、1956~57年に新興国インドを訪れた堀田は、自分の専門だった「小説」では把握できない文明として、同地に言及している。まずは、首都デリーに入った翌日に――

私は、小説を書いて生きている人間だが、近代小説というものは、私の考えでは、あらゆるものを相手にしていいけれども、とにかく「永遠」という奴だけは、直接、相手にしないという約束の上に成立しているものなのだ。それが出るとしても、作品の結果として行間から滲み出る、というかたちで出るべきものであろう。「永遠」などという、非歴史的な、歴史を否定するようなものは、詩と宗教の方へ行ってもらっているものの筈なのだ。

ところが、それがひと目チラリと見ただけで、もうそこに、むき出しになってくれているとなると、この「近代小説」家は、もろくもあわてざるをえなくなってしまった。

岩波新書、1957年、42頁 強調は引用者

民族も言語も数え切れないほど多様で、太古以来不変とも思われる風景の中に、植民地時代に築かれた近代建築まで混淆するインドに滞在すると、時間軸で物事を捉えることが無意味に感じられてしまう。そうした「永遠」の感覚は、詩でなら直観的に捕まえられるのかもだけど、直線的なストーリーに登場人物を乗せてゆく小説では、描けそうにない(※1)。

こうして最初は「日本人には理解しかねる地域」としてインドを観察する堀田さんですが、書物の最後では、むしろ両国に相通じるものを感じるようになる。きっかけとなったのは、有名なエローラ石窟寺院の観光。

世界遺産オンラインガイドより

洞窟の中で石柱をぽんと叩いてみたところ、地底まで響くようなものすごいこだまを発するのに接して、これはもはや「虚無の音」ではないかと感じた。続けていわく――