中公文庫改版(2022年版)、168頁 強調と改行は引用者
もちろん引用の原文でいう「未来」は、キリスト教の救済を指す。しかし、実現可能性のはっきりしない謎の未来予想図を掲げて「だから、そのためにはどんな犠牲でも払いましょう」と説く構図は、近日までの環境正義の論調も同じだ。
「子供たちの未来のために」と言っても、その子供たちが今の生活に苦しむのじゃ意味がない――そうした気分は着実に、欧州のみでなく日本にも根を下ろしつつある。
「未来」の人口回復のために、子育て支援にカネ! カネ! カネ! カネ! と政権が連呼しても、いっこうに支持率が上がらないのは、いやいやそのお金、原資は「いま」給料から天引きするんでしょ、と国民に見透かされているからだ。
キリスト教の天国を招来させようといった、「麗しい未来」詐欺はもうこりごりだ。そうした気分が日欧を問わず、先進国で広がる先に待つものは、なんだろう。
ひとつの危険な潮流は、未来クルクル産業におけるライバルだった「暗黒の未来」詐欺である。やがてAI が人間を駆逐し、弱肉強食はいっそう強化されるのだから、もう他人に共感するのはやめて自分のことだけ考えましょうと謳う黙示録的な囁きは、今後ますます勢力を拡大しよう。
裏街のうすぎたない居酒屋にたむろして勝手な熱を上げているのんだくれにすら、のんだくれ相応の「黙示録」がある。韃靼時代以後のロシア人は、高い者は高いなりに、卑しい者は卑しいなりに、それぞれ自分流の終末観をもち、それぞれ自分なりの終末への期待のうちに生きて来た。さもなければ、あの暗澹たる現実をどうして見事に生き抜けられたろう。
48-9頁 韃靼時代とは「タタールの軛」のことで、 終末観のルビは「エスカトロギー」
もうひとつのあり得る帰結は、反出生主義的なニヒリズムだろう。世の中はどうせ変わらず、そこで生きることは自身の無力さの確認に過ぎないのだから、ぶっちゃけ生まれてこない方がいい。生まれちゃったなら、なにもしないのがいい。
代表的作家の有名な中篇、長篇の主人公はほとんど全て「無用人」なのだが、文学以前の現実生活では、悲劇はもっとひどかった。続出する無用人の悲劇をどう始末するか、また無用人発生の本当の原因はどこにあるか、それが〔一八〕五〇年代ロシアの最大の問題であった。
201-2頁
ウクライナ戦争の停戦ラインがどこに設定されるにせよ、西側世界の結束によって押し戻せるはずだったロシア文明の本質をなす世界観が、むしろ先進諸国の内側へ浸透してゆくのは皮肉なことだ。そして認めがたくとも、EUですらそれはもう始まっている。
共著『教養としての文明論』で詳説したように、ユーラシアの諸大国がその両端(日欧)に憧れた20世紀は、私たちにとって幸運な時代だった。とりわけ1989年に冷戦が終わって以降は、皮肉でなく文字どおりに ”Go West”(西側へ行こう)が歴史の潮流だと思えた。
しかし21世紀は、逆に彼らの発する磁場へと、私たちが呑み込まれつつあるのかもしれない。あるいはWest へと流入したEast が、いつしか社会の性格をユーラシア的に変えてしまうのだろうか。
ロシアや中国が、西洋的な意味で「民主化」する日が来ないことは、とうに共通の肌感覚となっていよう。むしろこれから目を凝らすべきは、私たちの社会の諸制度が中国化され、人間観がロシア化する未来である。
(なお、Pet Shop Boys が ”Go West” をカバーしたのは1993年。時代の雰囲気を後世に伝えるために、今後も「歴史モチーフのMV」を作る試みは委縮せず続いてほしいですね)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年6月26日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。