黒坂岳央です。
文章を書く時、計算を求める時、コードの修正、仕事の構想をディスカッションする相手として毎日生成AIを使っている。最初こそ「あれ?そんなに騒がれるほどのもの?」と思っていたが、AIの進化と自分自身の使い方の熟練により、今では生成AIなしの仕事は考えられないほどになった。
あまりに便利すぎる生成AIだが、使っていて不安も感じるようになった。特定の仕事をAIにしてもらい続けることで明確な「衰え」を感じる瞬間があったからだ。
中国でも若者を中心に同様の懸念が広がっている。「問巻網(wenjuan.com)」では1,333人を対象にした調査では回答者の73.5%が生成AIで能力の衰えを不安視している。
創作筋肉の衰え文章作成、動画制作、デザイン作成などクリエイティブな仕事をする上で「この部分は脳の筋肉を強く使用する」と感じる部分がある。それは作品の企画だったり、言語化したい言葉を生み出すプロセスだったり、主張したいテーマの方向性だったりする。
生成AIに出会うまでは、この部分は永遠に機械化できないと思っていた。コンピュータが担う仕事はあくまで誤字脱字などの添削といった補佐的な役割であり、クリエイティブな仕事こそ人間にのみ許されたフロンティアだと信じていた。
しかし、ChatGPTがすべてを変えてしまった。プロンプトの入力に慣れてしまうと、もはやそのクリエイティブな領域をさっさと明け渡す方が、全体的なパフォーマンスが向上する場面も数多くある。まさかクリエイティブな領域から真っ先に機械化されるとは…青天の霹靂とはこのことである。
しかし、使い続けて気づいたことは「使わない筋肉は衰える」ということでだ。生成AIに任せっきりにするようになった仕事を、いつしか「面倒くさい」と忌避する回路が自身の脳内に形成されたのだ。これは恐ろしいことだ。
人間は使わない能力が衰える。特にアウトプットにおいてはそれが顕著で、読む、聞くといったインプットは理解できても、書く、話すの出番が減ったことで明確に切れ味が悪くなった。確かにAIが従来の能力を代替するとはいえ、この大変重要なスキルの後退を早々に受け入れて良いのだろうか?
結果、創作の一部は再び自力でやるように取り戻した。「わかる」と「できる」は似ているようで違う。「できる」が「わかる」に格下げする事実を今の自分は積極的に受け入れたくはないと考えている。それがたとえ非効率でいつしか迎合せざるを得ないタイミングが到来することがわかっていても、だ。