だが日本の主要メディアは今回の選挙で勝利した政党や政治グループをみな一様に「極右」と呼ぶのだ。一国の国内での民主的で自由で開放された選挙で多数派が票を投じて示した政治選択肢がなぜ「極」なのか。
「極」といえば、極端、極度など特別な例外を意味する。超少数派の超過激な傾向をも示唆する。まして「右」、つまり右翼という左翼がよく使う実態のない攻撃的形容の用語がそこについているのだ。その表現には非民主的、軍事独裁という感じのイメージまでが透けてみえる。
民主的な主権国家の国民多数が自由な選挙で自主的に選んだ政党や政策が、極端とか極度とか過激と呼べるはずがない。日本のメディアのこの用語は、一部ではヨーロッパの左傾やリベラル系メディアの慣行を真似たところもあるようだ。そもそも右とか左という区分は、その言葉を使う当事者が政治的にどんな位置に立つかでがらりと変わる。考察者自身が左翼であれば、ほぼすべての異見は右翼ということになる。
歴史的に右翼、左翼という表現はフランス革命での議会で現状を保持する側が右、改革を主張する側が左という由来から始まったとされる。だが現実の政治ではアメリカでも日本でもまず共産主義革命や社会主義改革を唱える側が最もわかりやすい左翼となっている。いわゆるリベラル派も左傾だろう。そしてこの左傾斜の側は自分たちと異なる政治志向をごく簡単に「右翼」と決めつける。
その右翼という言葉は守旧、頑迷、差別というようなネガティブな響きがつきまとう。だがその「右翼」というレッテルの中身が具体的になにを意味するのか、左翼の側はまず語らない。要するにののしり言葉に近いのである。
左翼は自由とか人権、博愛というような概念が自分たちの独占であり、右翼はそれらを軽視するとも主張する。だが共産主義の一党独裁とアメリカの保守主義での個人の自由の尊重をくらべれば、そんな主張はまさに左翼の独善であることがわかる。現に欧州で「極右」という用語を頻繁に使うメディアはみなリベラル系、グロバーリズム推進派、エリート志向だといえる。
イタリアのメロー二氏も長年、「極右政治家」と呼ばれてきた。だが民主的なプロセスで首相になった。当然ながらイタリア国民の多数が彼女を支持したからだ。だがそれでも「極右」なのか。
フランスのルペン女史も同様に多くのメディアから「極右」とのレッテルを貼られてきた。だがフランス国民の多数が自由民主主義の選挙のなかで、彼女を支持するのだ。だから「極」という言葉はあてはまらないだろう。
いまの欧州ではこれまでのEU執行部のあり方への批判が強まっている。EUの基盤のメンバー国から自国の政府や国民の意志を軽視や無視する傾向が強すぎるという不満が高まっていることは否定のしようがない。そのEU執行部が長年、推進してきた外部からの移民の大量流入に対しても加盟国の間で強い反対が起きていることも明白である。
ではこのEU批判、移民反対という政策は自動的に「極右」と断じられるべきなのか。この理屈を拡大すると、EUから脱退したイギリスの国家も国民も「極右」だということになる。
日本でもこうした現実を見据えて、他国の政治傾向を乱雑に断定することは避けるべきである。
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古森 義久(Komori Yoshihisa) 1963年、慶應義塾大学卒業後、毎日新聞入社。1972年から南ベトナムのサイゴン特派員。1975年、サイゴン支局長。1976年、ワシントン特派員。1987年、毎日新聞を退社し、産経新聞に入社。ロンドン支局長、ワシントン支局長、中国総局長、ワシントン駐在編集特別委員兼論説委員などを歴任。現在、JFSS顧問。産経新聞ワシントン駐在客員特派員。麗澤大学特別教授。著書に『新型コロナウイルスが世界を滅ぼす』『米中激突と日本の針路』ほか多数。
編集部より:この記事は一般社団法人 日本戦略研究フォーラム 2024年6月18日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は 日本戦略研究フォーラム公式サイトをご覧ください。