書物の暗記と詩吟が受験科目として課されていた
それでは科挙の試験科目はどのようなものであったのでしょうか。
郷試・会試・殿試で難易度やボリュームは異なっていたものの、基本的には四書五経と詩題、策題という政治論文が課されていました。
四書五経は儒教の経書の中で特に重要とされる九つの文献のことであり、四書は論語、大学、中庸、孟子、五経は易経、書経、詩経、礼記、春秋です。
当時はこれらをマスターすることが、教養人への第一歩と考えられていました。
なお当時は四書を学んでから五経を学ぶことが一般的になっていたこともあり、科挙においても四書の方が基礎科目として重視されていました。
受験生はこの合計57万文字とも言われている四書五経を全て暗記した上で、そこに書かれていることをもとに小論文を書かなければなりませんでした。
詩題はその名の通り詩の詠むというものであり、受験生は詩の分野における知識と技術のうまさを求められました。
この詩題はオリジナリティよりも技巧がかなり求められており、後に中国を代表する詩人となる欧陽脩(おうようしゅう)も一度ミスで不合格になっています。
詩題も先述した四書五経と並び、身につけなければならない教養として扱われていました。
そのようなこともあって、科挙の合格者は中国における理想的な教養人としても扱われていたのです。
なお官僚の登用試験という扱いではあるものの、官僚になってから実務で使うであろう法律に関する科目はありませんでした。
科挙が中国に与えた影響
この科挙は中国において長い間続けられていたこともあり、様々な影響を中国社会に与えました。
特に詩の分野では当時の知識人たちが科挙の価値観を内面化していたこともあり、どんどん難解になっていったのです。
実際に北宋(960~1127)の時点でも詩人たちの詠む詩はかなり複雑なものになっており、同時代の人物でさえ注釈書がなければ詩の内容をまともに理解できませんでした。
また知識人は古典の詩をほとんど覚えていたということもあり、詩を詠む際に古典の詩の句をそのまま引用するということが多々ありました。
中には一つの詩の全てが古典の詩の句の引用ということもあり、古典の継ぎはぎの詩というのは決して珍しくなかったのです。
また知識人たちは自分の感情さえも古典の詩の引用や難解なテクニックを使ってしか表現できず、このようなこともあって中国の詩はどんどん現実の言語から乖離していき、近体詩というスタイルが中国の正統な詩形となりました。
「たかが試験制度」と言いますが、試験制度によってエリートの価値観が固定化され、文化にさえ大きな影響をおよぼしてしまうことを考えると、試験制度が後世に与える影響は計り知れないといえます。
参考文献
学習院大学学術成果リポジトリ (nii.ac.jp)
ライター
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。
編集者
海沼 賢: ナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。