世の中には様々な難しい試験があり、こうした難しい試験に挑戦する人々は並々ならない覚悟を必要としています。

では歴史上もっとも難しかった試験とはなんなのでしょうか?

それがかつての中国で行われていた科挙と呼ばれる資格試験で、現在でも合格率の低い試験の代名詞として使われるほどです。

果たして科挙とはどのようなものだったのでしょうか?

また中国文化にどのような影響を与えたのでしょうか?

本記事では科挙の試験スタイルや試験科目について紹介しつつ、中国文化に与えた影響について取り上げていきます。

なおこの研究は、学習院大学東洋文化研究所1–26 pに詳細が書かれています。

人気アイドルグループのオーディションと同じくらい難しかった科挙

科挙(かきょ)は、中国の隋(589年~618年)から清(1644年~1912年)にかけて実施されていた、官僚登用のための試験制度です。

この制度は、家柄や人脈に関わらず、学問の知識と才能を持つ人々が官僚になる道を開くことを目的としていました。

そのためこの科挙は非常に難しいことで知られており、最盛期には約3000倍の倍率を誇っていたともいわれています。

2023年度の国家総合職試験は7.5倍であり、その難易度から「現代の科挙」といわれていた旧司法試験でも最大で63倍であったことを考えると、いかに科挙の倍率が高かったのかが窺えます。

倍率3000倍と言われると想像がつきませんが、2018年に行われたアイドルグループの乃木坂46の4期生オーディションの倍率が3312倍です。

そのことを考えると、科挙に合格する割合は大人気アイドルグループのオーディションに合格する割合と同じくらいであり、いかにハードルの高いことであるのかが窺えます。

科挙の受験スケジュール、時代が進むにつれてどんどん複雑になっていった
科挙の受験スケジュール、時代が進むにつれてどんどん複雑になっていった / credit:wikipedia

科挙の試験課程は時代によって大きく異なりますが、時代が下るごとに受験生が増加したこともあって複雑化していきましたが、基本的に次のような順序で進んでいきました。

試験の種類と段階

    • 童試(どうし):地方試験の第一段階で、国立学校への入学試験。
    • 郷試(きょうし):地方レベルで行われる本試験。これに合格すると「挙人」と呼ばれる資格が得られる。
    • 会試(かいし):中央で行われる試験。合格者は「貢士」となる。
    • 殿試(でんし):皇帝が直接行う最終試験。合格者は「進士」となり、官職に就くことができる。

このように中国最後の王朝の清の場合、科挙の第一歩は国立学校の入試である童試から始まります。

科挙を受験するためには国立学校の学生でなければならず、それゆえまずは国立学校に入学する必要がありました。

童試は三年に一度行われ、受験生は住んでいる県(現在の日本の市町村に当たる)が主催する県試、住んでいる府(現在の日本の都道府県に当たる)が主催する府試、中央が主催する院試の三つで構成されました。

この童試に合格したものは晴れて国立学校の学生となり、科挙を受ける資格を手に入れたのです。

しかし国立学校では三年に一度歳試という定期試験があり、この試験の成績があまりにも悪いと国立学校を退学になりました

また国立学校とはいうものの、学校では学生に対する教育はまともに行われていません。

そのため建前上は「学校の入試」である童試は、実質的には「科挙の受験資格である学生という身分を手に入れるための試験」として扱われていたのです。

その後受験生たちは科挙の予備試験である科試を受験し、合格者はいよいよ科挙の本試験である郷試を受験しました。

郷試は非常に難易度が高く、合格するためには厳しい勉強と精神的な準備が求められました。

また郷試も先述した童試と同じく三年に一度しか行われておらず、不合格になった場合は三年間浪人することとなります。

さらに、採点の前に解答用紙の受験生の名前の部分を糊付けし、さらに筆跡から受験生が特定されるのを防ぐために筆記係が全答案を一字一句模写していました。そのため採点者は受験番号だけが書かれた答案の写しを見ながら採点を行っており、採点者に賄賂を渡して不正を行うことは不可能に等しかったのです。

郷試の受験会場である貢院の内部は、厳粛な雰囲気に包まれており、受験生たちは数日間部屋から出ることも許されず、厳しい環境の中で筆記試験に臨んでいました。

試験は徹夜で行われ、精神に異常をきたしたり急病になったりする受験生も多く、中には受験中に命を落とすものもいたのです。

この郷試に晴れて合格した者は挙人と呼ばれるようになり、次の試験である会試を受験する資格が手に入りました。

また挙人には地方の行政官になる資格も与えられており、受験生の中にははじめから官僚になることを諦めて、郷試合格後すぐに地方行政官になるものもいました。

その次に行われた会試は、首都で行われており、こちらも郷試と負けず劣らずの難易度を誇っていました

そして会試の合格者は、最後の試験である殿試を受けることができました。

この殿試は皇帝が直々に行う面接であり、この試験の結果によって官僚としての出世コースに乗れるかどうかが決まったのです

明王朝の万暦帝
明王朝の万暦帝 / Credit:commons.wikimedia

皇帝が最終面接官と言われるとかなり恐ろしい感じがしますが、ただ殿試まで来た場合は、よほどのことがない限り不合格にはならず、たとえ試験の出来がそこまでよくなかったとしても官僚自体にはなれたといいます。

また科挙には特に受験年齢の制限などは無かったことから、中には70歳を過ぎてから合格するものもいました。

しかし官僚の定年は70歳であったことから、70歳を過ぎて殿試に合格した場合は官職は与えられなかったのです。

しかし当時の中国では「科挙合格者」というだけでかなりの名誉があったことから、70歳を過ぎても受験する価値はありました。

なお合格者の平均年齢は30代であり、合格者は30~40年近くの間官僚として働いていたのです。

このように科挙の受験プロセスは、知識人階級の育成や官僚制度の維持に重要な役割を果たしており、古代中国の文化・社会において欠かせない存在であったのです。