別に男児だけがターゲットになっているわけではなく、父親の死体の写真投稿などもなされているのですが、それにしてもここまでの男性への憎悪にはぞっとさせられます。
むろん、これは極端すぎると思われるかも知れませんが、とは言え、フェミニズムにおいて、とにもかくにも男は「絶対悪」とされています。
フェミニズムとはそもそも、結婚や異性愛を女性を抑圧する、男性によって作られた社会的装置として、全否定する思想です。本件では男児が女性に性的興味を持つことがおぞましいこととされていますが、それも「フェミニズムにとっては正論」なのです。
つまり「男児叩き」そのものは、フェミニズムという思想を演繹していけばある意味、必然であり、韓国の状況はさすがに極端とは言え、これは日本の未来を指し示しているとも言えるのです。
さて、しかしそれでは一体、彼女らはどうしてこんなことになってしまったのでしょう。
彼女ら自身の口から語られる言葉をそのまま受け取れば、「この日本が考えられないほどの男尊女卑、女性蔑視で満ちているからであり、それらに対する絶望が、このような言動を取らせているのだ」となりましょうが、しかし今の日本がそこまでの女性差別社会だというのは、普通の人からすれば奇異に聞こえるでしょう。
法律上の平等は概ね達成されていますし、妻を横暴に虐げる夫というのもいるにはいるでしょうが、むしろその逆の方が比率としては多いのでは……とも思えます。
しかしだからこそ今、いわゆる「ツイフェミ」が猛威を振るい、いや、その「ツイフェミ」に目を奪われている人も多いけれども、ポリコレに代表されるように「ツイフェミ」たちの親玉である「本来のフェミ」も息を吹き返した……ぼくにはそんなふうに思われます。
「女性差別の消滅が、フェミニストの動きを活性化させた」。
妙な話です。しかし、例えば昨年、日本のフェミニストの代表格と言える上野千鶴子氏が結婚していたことが判明し、批判されました。彼女も盛んに結婚を否定する主張を続けていたのだから、それも当たり前のことなのです。
しかしその事件自体が、フェミの根源に、結婚や恋愛という「酸っぱいブドウ」に対する「ツンデレ」的感情があることを、立証してはいないでしょうか。何しろ普通に労働者として働いている女性より主婦の方が(ついでに男性より女性の方が)幸福だということは、各種調査ではっきりしているのですから(『平成26年度版 男女共同参画白書』など)。
しかし一体全体どういうわけか、リベラルのセンセイたちは「働く女性の幸福度を上げねば!」とかけ声を上げるばかりです。
つまり「女の幸せは結婚」といった、今言えばセクハラで大問題になるでしょうが、一昔前ならば普通に言われていた言葉にやはり一定の普遍性があり、それをフェミが「セクハラ」扱いしてきた(事実、上野氏は辛淑玉氏との共著『ジェンダー・フリーは止まらない!』において「女は嫁に行くのが一番」のような信条を「ユダヤ人はドイツ人より人種的に劣っている」と言うのと同様で、許されないとしています(16~17p))ことは、むしろ女性を不幸にしてきた。
この三十年近くに渡ってフェミは性を厳格化し続けて来ましたが、そうなれば当然、男性は女性にアプローチしにくくなる。それでご満足いただけたのか、彼女らはいよいよ「あれも女性差別、これも女性差別」と荒ぶるのみです。それは言わば、「仮に不快でも、とにかく自分は男性から求められる存在でなくてはならない」との女性のセクシュアリティの本質に根ざした反応です。
この一連の「男児叩き」はその果てに生じたものです。下手をすると二、三歳児による「性加害」を脅威だとする感受性は、それこそ「女の幸せは結婚と言ってはならぬ」といった性にナイーブすぎる反応と、同様なのではないでしょうか。
それともう一つ。この「男児叩き」のさらなる本質は、むしろ「男児(という、理想の恋人)」を持つ母親への嫉妬という側面が強いのではないでしょうか。
フェミは「結婚」と同時に「母性」を激しく憎みますが、これもツンデレ的反応であり、フェミによって「母親」になることのできなかった女性たちが、フェミ的レトリックで男児に憎悪を燃やしている。それが本件の本質であるように、ぼくには思われるのです。
フェミの反社会性はあまり知られておりませんが、より多くを知りたい方は拙著『ぼくたちの女災社会』をご覧ください。電子版で先日、改訂版を出したところなのでよろしくお願いします。
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兵頭 新児 本来はオタク系のフリーライター。フェミニズム、ジェンダー、非モテ問題について考えるうち、女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱、2009年に『ぼくたちの女災社会』を上梓。先日、その増補改訂版を刊行。noteも運営中。twitter。 ご連絡は:[email protected] まで。