東洋経済オンラインに「思い通りにならない時に人は試される」として、養老孟司さんの次の言が載っています――世の中には思い通りにならないことがあることを知る。それが寛容の始まりです。自分も変わっているし、相手も変わっている。変だと思ったら、それは自分が変なのか、相手が変なのか、どちらかです。だけどいまの人たちは「相手が変だ」というほうが多い気がします。自分は変わらないと思っているからです。それを「不寛容」と言います。「何かおかしい。変なのは俺じゃない、こいつだ」となって、相手を排除しようとする。不寛容の極みです。
養老さんは又続けられて曰く、「もしかしたら、変なのは自分かもしれない。それを忘れて、自分のモノサシを固定化した瞬間、人は不寛容になります。寛容になるためには、思い通りにいかないことを受け入れたうえで、少しずつ状況を変えていくしかありません。それには自分だって変わらなきゃいけない」ということです。上記に関し私見を申し上げるとすれば、そもそも人間というのは自分の固定観念で変か否かと一々考えて、「変わり者」云云と評すること自体が不要であると思います。 人間には夫々個性があり皆違った顔で生まれてきているように、ものの考え方あるいは感性等等その全てが異なっていて然るべきでしょう。多様性を大前提としていれば、「世間には色々な考えがあるんだなぁ」「自分と違って当たり前」で仕舞となり、余りぐちゃぐちゃ難しく考えるような話でもないと思います。ある意味全てを受け入れるべしと迄は言いませんが、少なくとも相手が変か否かと一々自分の価値基準を押し付ける必要はありません。
某新聞社の先月の「ルポ迫真」に、「異形の企業集団SBI」とありました。世のため人のため必死になって「自己否定」「自己変革」「自己進化」のプロセスを続け一生懸命チャレンジし、成長に突き進んでいる我々に対し何を以て異形とするのでしょうか。此のタイトルを付された方に是非とも伺ってみたいものであります。「日本の常識は世界の非常識」――あらゆる事柄において日本人は世界の常識をもっと踏まえなければなりません。