もっとも、明応2年に自治が解体された後も、南山城で国人たちの地域的連帯が続いていたことは既存の史料でも知られていた。天文元年(1532)、奈良中で土一揆が蜂起し、その余波は翌年まで続いた。天文2年3月、興福寺は「土一揆成敗」について、「伊賀国取継」の田山・稲垣氏、「城州惣国取合」の狛・木津・稲八妻氏と交渉している(「蓮成院記録」天文二年三月条)。狛・木津・稲八妻は南山城の国人で、戦国後期に南山城で「城州(山城)惣国」という国人の連合体が機能していたことがうかがえる。
しかし、これまで知られていた山城国一揆関係の史料は、興福寺など外部の人間が書き残した記録であった。今回発見された史料は、山城国一揆を構成した当事者が作成したもので、国人たちの連合体の実態が詳しく分かるという意味で非常に高い価値を持つ。
一例を挙げれば、興福寺僧の尋尊の日記『大乗院寺社雑事記』などに見られる南山城の「三十六人衆」とは、具体的にどの国人を指すのか不明だったが、今回の新史料により、36人の構成員が誰でどこに住んでいるかが明らかになった。
ただ、ここで注意したいのは、厳密に言えば、今回発見された史料は、「山城国一揆」の史料ではないことである。史料上、「国一揆」という表現が見えるのは、両畠山氏を追放した段階だけで、それ以後は「惣国」という表現が散見されるようになる。今回発見された史料でも、「惣国」と書かれた史料はあったが、「国一揆」と書かれた史料はなかった。
従来の研究は、一時的な抵抗運動としての「国一揆」と、恒常的な連合体としての「惣国」を混同して論じてきたように思われる。このような議論の錯綜には、山城国一揆に対する過度の思い入れが影響している。
山城国一揆は戦前から有名で、明治45年(1912)2月に三浦周行(ひろゆき)という歴史学者がこの一揆を題材に「戦国時代の国民議会」という論文を書いている。三浦はこの一揆運動を「平民階級の覚醒」という観点から高く評価し、「一大革命」とまで言っている。当時、中国で辛亥革命が起こっており、このことに刺激された論考と判断される。
戦後はマルクス主義の階級闘争史観に基づき、両畠山を追い出した山城国一揆を反権力・反体制の革命的な運動として捉える理解が定着した。特に1970年代には、ベトナム反戦運動や革新自治体の躍進など市民運動・平和運動が盛り上がったため、南山城で戦闘を続ける両畠山を追放した山城国一揆は平和と自治を実現した共和国として高く評価された。だが、このような研究潮流は、明応2年に自治体制が解体した後の山城国人たちの動向を軽視する結果を招いた。
国家権力の介入を排除した自治だけに価値があるという見方は、ある種の政治的偏見と言わざるを得ない。南山城の国人たちが室町幕府による支配を受け入れつつも、戦国後期に至るまで「三十六人衆」という政治的まとまりを維持して地域支配を行っていたことを正当に評価する必要があろう。
今回の新史料発見を機に、戦国時代の「惣国」研究が進展することに期待したい。
提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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