つい先日、山城国一揆に関する新史料が大量に発見されたという報道があった。馬部隆弘・中京大教授が2021年、奈良県平群町教育委員会に所蔵されていた大量の未整理文書を見つけた。3年かけて調査し、尾張椿井家の所蔵文書124通と特定した(江戸時代中期、山城の椿井家が所蔵していた中世文書を書写し、尾張藩の重臣志水家に仕えた名古屋の椿井家に送ったもの)。
椿井氏は山城国相楽郡椿井(京都府木津川市山城町椿井)の国人(武士)で、「山城国一揆」の中心メンバーであった。したがって、この文書群は「山城国一揆」関係の史料と評価できる。
私は『毎日新聞』の取材に答えたが、1行コメントではこの新史料発見の意義について語り尽くせないので、この場を借りて説明したい。
教科書にも載っている「山城国一揆」は多くの人が知っていると思うが、念のため、大まかに解説しておこう。応仁の乱の一因は有力守護畠山氏の家督争いにあり、畠山義就(よしひろ)と畠山政長は、それぞれ西軍と東軍に分かれて戦った。文明9年(1477)に応仁の乱が終結した後も両畠山の争いは続いた。
文明10年、山城守護に任命された畠山政長は強力な支配を展開しようとするが、これに反発した畠山義就が河内国(現在の大阪府の東部周辺)から南山城(現在の京都府南部、宇治川以南)に侵攻した。両畠山が延々と戦いを繰り広げる中で南山城の国人や農民は疲弊していった。
文明17年、南山城の国人たちが宇治の平等院で「集会(しゅうえ)」を開いた。そして集会での決議に基づき、両畠山軍に対し南山城からの撤兵を要求した。両軍は撤退し、翌年には国人たちが「国中掟法」を制定する。南山城では「国中三十六人衆」による自治が行われるようになった。けれども、この体制は、室町幕府から山城守護に任命された伊勢貞陸の命を受けた古市澄胤の侵攻を受けたことで、明応2年(1493)に解体された。
しかし、今回発見された史料から、「三十六人衆」という国人たちのまとまりは、戦国後期まで継続していたことが判明した。