ここはもともと、醍醐天皇の側近で堤中納言といわれた紫式部の曾祖父藤原兼輔の邸宅があったところで、父である藤原為時も引き継いでここにあったので、紫式部もここで育ちました。
鴨川の堤と平安京西京極大路とにはさまれた瀟洒で住み心地の良い地域だったらしく、のちには、藤原道長も廬山寺の南側に法成寺を建築しました。境内には豊臣秀吉が京都の城壁として建設した御土居の遺構が残っています。
紫式部やその夫の家系は、摂関家と言われる藤原本家一門ではありませんが、醍醐天皇の母を出したことから栄えた良門流といわれる一派で、公家の世界では有力な一派でした。
父の為時は、花山天皇の側近でしたので、敵対していた道長らの系統から冷遇されていましたが、道長に直訴状を書いたのが功を奏して、大逆転で越前守という美味しいポストを獲得して、越前に下ることになって、紫式部も同行しました。
しかし、1年5ヶ月で単身で京都に戻りここに住んで結婚し、宣孝は紫式部の中川の邸宅に通っていたようです。
といっても、廬山寺というお寺と紫式部は関係ありません。この寺はもともと船岡山の南麓にあったのが、豊臣秀吉の時代に京都の寺院をこの寺町通りや表千家や裏千家がある寺ノ内に集めたときに、この場所に移転させられただけです。
ただ、1965年になって、廬山寺の境内に紫式部の邸宅址を記念する顕彰碑がたてられ、源氏庭が整備されました。源氏物語に出てくる朝顔の花はいまの桔梗のことだそうで、紫の桔梗が六月末から九月初め頃まで咲いています。
源氏物語では、第二帖の帚木における「雨夜の品定め」で、源氏と頭中将(葵の上の兄)らが女性談義をして、中級以下の貴族にも魅力的な女性は多いと経験談を話す場面があります。
朝まで議論を交わしたのち、光源氏は葵の上の住む左大臣邸(二条城と堀川通を挟んだ東側)へ向かいましたが、方角が悪いことに気づいて、方違えの宿泊先に左大臣の側近だった紀伊守邸(廬山寺の少し南)へ向かいました。ここで、紀伊守の父の若い妻である空蝉と結ばれました。
その後も光源氏は彼女に執着し、夜這いするのですが、逃げられ、かわりに残された軒端荻(紀伊守の妹)を成り行きから相手にすることになります。
末摘花が住んでいた常陸宮邸も廬山寺の近くです。勘解由小路(下立売通)南富小路東で、京都御苑の南東隅にある富小路広場のあたりです。
提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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