中国風の強固な中央集権国家をめざしたのが、大化の改新から平安初期までの日本で、大陸文明を取り入れ、対外戦争にも対応できる軍事力も整備しました。
ところが、いずれも一段落したので、荘園とか受領制という形で地域経営を民活化したり、国軍や警察でなく、武士という民間武装勢力を必要に応じて雇ったりすることのほうが安上がりだとなったのが摂関時代の日本です。
そのように、体制の基盤が揺れ動く時だったのですが、道長が長期的視点でこうした問題に取り組んでいたようには見えません。そのかわりに、道長は一族の対抗馬を押さえ込み、皇室に娘たちを送り込んで外戚として揺るぎない地位を確立しました。おかげで地方でもめ事があっても体制全体の危機にまでは発展しませんでした。
比叡山、三井寺、興福寺などが僧兵を抱えて争ったことは、首都である平安京周辺で最大の武装勢力が彼らであるという状況を創り出し、一方、台頭する武士のなかで河内源氏の源頼光が道長の用心棒兼資金担当秘書的存在として台頭し、これが2世紀のちに武士の世になる伏線になりました。
文化面で見ると、源氏物語や寝殿造りの建築に代表される藤原文化は全国の規範となり、浄土信仰も広まりました。
こうした道長の政治は、それなりの安定性と時代感覚は評価できますが、長期的な国家課題に積極的に取り組むものとはいえませんでしたし、そうしたスタイルがそれなりの評価を得たことは、現代に至るまで日本政治の特徴であるバカ殿政治に道を開くものとなりました。
藤原道長は村上天皇末期の966年に生まれましたが、この時点では、祖父師輔の兄である実頼が氏長者でしたが、父兼家の姉である安子が生んだ冷泉・円融天皇の即位によって摂関家の主導権を兄弟たちがとりました。
亡兄である伊尹の外孫・花山天皇を兼家が策略で退位させ、自分の外孫である一条天皇の即位で摂政(のちに関白)になったのが、道長が21歳のときです。しかし、三男なので序列は高くありませんでした。25歳のときに父が死ぬと、長兄の道隆が関白を継ぎ、30歳のときには次兄の道兼が関白になるも七日間で死去しました。
ここで一条天皇は、道隆の子の伊周を関白にしようとしましたが、姉で天皇の生母だった詮子の強引な推挙により実質的な関白である内覧の地位を獲得して実権を握りました。
このときには、すでに一条天皇の中宮として道隆の娘・定子がいました。そこで、35歳の道長は、12歳の長女彰子を入内させて、翌年には定子を皇后とした上で彰子を中宮とし(前代未聞の一帝二后)、43歳のときに彰子が敦成親王を生みました。
46歳の時、一条天皇は、花山天皇の弟である三条天皇に譲位しました。天皇は師輔の甥を父とする娍子を皇后に、道長の娘の妍子を中宮としました。また、一条天皇と定子のあいだには、敦成親王がいたのに、敦成親王を東宮とし、51歳のときに後一条天皇として践祚させ摂政となりました。
53歳の時に、後一条天皇に9歳も年上の娘である威子を入内させ中宮としましたが、このときに詠まれたのが望月の歌ですが、1022年に62歳で死去しました。
提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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