「梁上の君子」がなぜ泥棒やネズミを意味することになったのか

ではなぜ「梁上の君子」が泥棒やネズミを意味するのでしょうか。
「梁上の君子」は『後漢書』にある故事に由来する
「梁上の君子」は古代中国の「後漢書」にある故事から来ているとされています。
それは2世紀の中国でのこと。
後漢王朝の時代に公正さで知られる陳寔という人物がいました。
ある年、凶作で人々が切り詰めた暮らしをしている時、彼の家に泥棒が入って天井の棟木の上に隠れていたそうです。
それに気づいた陳寔は知らんぷりをして子供たちに説教を始めたと言われています。
その説教の内容は以下の通りです。
「人間は日頃の修練が大切だ。悪人も最初から悪人だったわけではない。悪い習慣が重なってそうなってしまうのだ。」
まさに隠れている泥棒に向けて言い放ったような口ぶりです。
事実、陳寔は説教に続けて「梁上(棟木の上)にいる君子(先生)が良い例だ」と言ったのです。
それに泥棒は驚き、棟木から降りてきて謝罪したのだとか。
つまり、陳寔は説教するためにあえて知らんぷりをしたということです。
なお、話はここで終わらずさらに続きがあるとされています。
泥棒を見つけた陳寔は「生活の苦しさから盗みに及んだ」という事情を汲み、その泥棒にものを与えて帰したそうです。
するとそれが功を奏したのか、近辺から泥棒がいなくなったのだとか。
このような話から「梁上の君子」という言葉が生まれたとされています。
ちなみに、ネズミは屋根裏などで悪さをすることが多いため、次第に「梁上の君子=ネズミ」とする表現も広まったとされています。
逸話となった人物は三国志の初期の時代に活躍した『陳寔』
陳寔は三国志の初期の時代に活躍した人物です。
貧しい家に生まれた陳寔は若い頃から勉学に親しんだそうです。
また、公平無私で寛容な政治を行ったことでも知られています。
それらのことから民からの支持も根強い人物だったそうです。
ただ、宦官の専横に反対したため、党錮の禁を受けることとなります。
後に禁が解けると何進らは人を遣って陳寔を官職に復帰させようとするが、出仕することを拒んでそのまま亡くなったのだとか。
なお、彼の葬式には参列者が約3万人集まったと言われています。
同時に喪に服した者も韓融・荀爽をはじめ100人を超えたそうな。